2015年08月02日

シーサーの人気凋落について考える

6月の沖縄から帰って最初に書き始めたのは、

この数年という期間に、これほどシーサーが、

街から見えなくなっていることへのおどろき。


もちろんまだお土産アイテムのひとつとして、

観光客に対しては売られているわけですが、

沖縄の人たちがシーサーに対して急速度で、

愛着を感じなくなっている、つまり飽きている。

(総合的な傾向、ということです。もちろん、

個人的に好きな人はたくさんいるでしょう。)


ほんとうは4年前から、あるいはそれ以前から、

進んでいた現象だったのかもしれませんが、

少なくとも4年前は、気づく余裕を持てなかった。

でも、ここまで明確に排除されていたとは思えない。


「シーサーパパラッチ」(byハーリー)と呼ばれつつ、

何百というシーサーを載せてきたので、

(撮った数は、その数十倍はあって)

このことは確実に自信を持って言え、

すでに気づいている人も多いのでは。


でも、ほんとうに沖縄の人たちが、

シーサーに「尻を向けている」のか?

それは、単なる印象からは言えません。

だから、これまで記事にもしませんでした。


シーサーの人気凋落について考える


そして、上記のような躊躇があったので、

いつもは沖縄から帰って「いの一番」に載せてきた、

シーサーの記事も、しばらく書くことがありませんでした。


そして、書き始めてみて、改めて気づいたこと。

そのことを述べる前に、最近の「記事アクセス数」を載せてみます。


3年に1度のブルームーンだというので    24

那覇市プレミアム商品券のこと         54

ベストシーサーズ その7 とにかくがんばれ  5

次はいつ、また沖縄に行けるだろうか・・・   14

ベストシーサーズ その6 玉=財産、玉=人 1

ベストシーサーズ その5 夜も昼も       4

ベストシーサーズ  その4 ステンドグラスの片隅に 4

丑の日ではなかったが、土用のあいだに、うなぎを食した話。 35

ベストシーサーズ その3 真実の口シーサー 3

ベストシーサーズ その2 ひとつ屋根の上   3

ベストシーサーズ その1 いつも見ていたのに 6

(8月2日12:30時点。投稿の日付や時間等は省略)


つまり、シーサーの記事は他の記事とは一桁違って、

アクセス数が10にも達しないものばかりなのです。


7月の記事をさらに前までさかのぼって見てゆくと、

台風の記事が3つ(9号と11号)で、131アクセス

嵐の大野智くんの個展の記事が3つで118アクセス

又吉直樹氏の芥川賞受賞の記事が、これも3つで96

なかでも、1記事のアクセス数が一番多かったのが、

「のりトクプレミアム」(公共交通利用促進プレミアム商品券)

について書いた記事で、これが現時点でアクセス82

(記事を書き終わって確認したら、84に増えていました。)


もとより、決して「多い」とは言えない数字ですが、

それでも、シーサー以外の記事を書いた場合には、

上に記したくらいの方がアクセスしてくださるのです。

そして、続けて同じようにシーサーの記事を書くと、

上に一覧したような一桁の数字で止まってしまう。


もちろん、記事をUPした曜日や前後の掲載記事数、

ぼくのシーサー記事がおもしろくないことなどなど、

その他の要素もからんでの結果には違いありません。

しかし、たとえば7年前まで、シーサーの記事を書いて、

これほどアクセス数が少ないと感じたことはなく、

むしろ、「沖縄・八重山探偵団」の大きな柱として、

シーサーの記事があるとさえ考えていたのです。


シーサーの人気凋落について考える


そもそも沖縄の人たち(一般的な)のあいだに、

シーサーが流行りだしたのは敗戦後のこと。


これまでに読んだ本や聞いた話によれば、

壊滅的に破壊された那覇のまちの中で、

壺屋(の一部)だけが破壊を免れたことから、

屋根獅子の守護する力はとても強いのだ、と、

人々のあいだに噂が広まったのが最初でした。


そして、藁屋根中心だった民家の屋根が、

瓦屋根中心になってゆくのと軌を一にして、

屋根獅子を置くことが流行したと言われています。


ただ、戦後の沖縄の人たちの経済状況を考えた場合、

直線的・爆発的に、瓦屋根の上にシーサーを乗せる、

それが流行していったというのは言い過ぎかと思います。

というのも、戦後の沖縄を撮影した写真や絵葉書など、

それらを見ていても、屋根獅子を乗せた家は少数派で、

そもそも瓦屋根よりも板屋根・トタン屋根が多いのです。

(これは、ぼくなどが言うまでもなく。)


だから、壺屋の噂は確かにあったのだとしても、

(つまり、人々が獅子への敬愛を育てていたのだとしても)

実際に瓦屋根のある家を建て、屋根獅子を乗せるまでには、

もう少し長い時間がかかったというふうに考えるべきでしょう。


その「もう少し長い時間」については、改めて考察します。

そこ(シーサーの流行)に関与したのは、まず「本土復帰」と、

それから海洋博に象徴される「観光」の2つだと考えています。



(今回の写真は、波の上宮拝殿前、吽形の壺屋焼獅子。

シーサー造りの名匠・島 常賀氏の代表作のひとつで、

ぼく自身の「シーサー体験」の原点のひとつでもあります。)

後姿からの撮影は、「失礼!」と、心の中でわびつつ、

掲載は、「すみません」と思いつつの所業です。あしからず。


                                (つづく)








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