2017年03月03日

何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ。(村上春樹の『騎士団長殺し』を読む、その4)

2月28日、午前2時10分。

『騎士団長殺し』を読み終わった。


「これでいい」という言葉が口をついて出た。

「これで、いい。」


振り返れば、第1部(1冊目)から第2部に移る、

そのあたりが、いちばんわくわくしていた。

「ああ、もうあと1冊しかない」とせつなかった。


第2部がおもしろくなかったわけではない。

それどころか、第2部ではしばしば胸が熱くなった。

ただ、多くの読者たちは、そのくらいでは満足しないだろう。

『ノルウェイの森』以上のせつなさや、

『世界の終り』以上の完成度の高さ、

そういったものをつい期待して読む。


そうでなくとも、この物語には(にも)、

一見、多くの謎が残ったままだ。

(よく読めば、答えは書かれている。)

だから、『騎士団長殺し』の感想として、

あまりに急速に幕を下ろしたと非難をする、

そういう感想も、たくさん書かれているはずだ。

しかし村上春樹は、そんなことは先刻承知だろう。


第2部まで全64章の61章までは、

今回刊行された2冊では終わらない、

つまり第3部が続けて書かれると思えた。

(それは、ほぼ確実にそう思われた、)

しかし、62章で雲行きが変わり、

最後の2章で物語は閉じられた。


構成的に言って、それがどうなのか、

つまりバランスを欠く構成なのかといえば、

ぼくは、そうではないと思う。

最初の2章と最後の2章は、

シンメトリーを形成している。

そこには必然があるからだ。


そのことを論じるためには、

多くの文字数が必要になる。

さて、どうしようかと考える。


何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ。(村上春樹の『騎士団長殺し』を読む、その4)


『騎士団長殺し』についてネット内に書かれた文章を、

ぼくはまだひとつも読んでいない。

これからも読むことはないだろう。

すくなくとも、ぼく自身の考えをまとめるまでは。


ともあれ、すでに2回目を読み始めた。

1回目に相当精読したつもりだったが、

気がつかなかったことが次々に出てくる。


自分で貼った付箋が気になって進まず、

それなのにさらに付箋が増えていくので、

今日、本屋で3組目を買おうと思っている。

(2冊で3888円は、かなりの出費だが、

古書で出回るのは、まだ先のことになるし、

それだけ出しても買って読む価値はある。)


何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ。(村上春樹の『騎士団長殺し』を読む、その4)





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