2021年03月07日

柳田国男、東京に帰って沖縄の話をする。

100年前の柳田国男のことについては、

もう少しあれこれ書き加えるつもりだったが、

ほとんど書き加えることなく、3月になった。

というか、3月も、もう1週間が過ぎようとしている。

(「去ってしまう3月」である。1週間ずつは長いのだが。)


柳田国男が東京に帰着したのが3月1日。

6日(日曜日)には、早くも沖縄の話をしている。

折口信夫(おりくちしのぶ)の家で開かれた研究会。


その話に触発された折口は、沖縄渡航の準備を進め、

4か月後の7月から足掛け3か月、沖縄に滞在している。

100年前の航路事情を考えると、この行動力はすごい。

当時の折口が、いかに柳田に敬意を抱いていたとしても、

また、大学の臨時講師として比較的時間があったとしても、

よほどの感動を抱かなければ、沖縄行きはなかっただろう。


1か月ほどさかのぼって2月9日の話をしたい。

柳田国男が那覇港から帰路に就いた日である。


大正10年(1921)、2月9日(水曜日)。

100年前のこの日、柳田国男は沖縄を離れた。

帰京するのは3月1日なので、まだ「旅の途中」である。

ともあれ100年前の2月9日、柳田は那覇港を出発した。


出発の4日前(2月5日)には、那覇区内の松山小学校で、

(まだ「那覇市」ではなく、「那覇区」であった頃。)

「世界苦と孤島苦」と題した講演をおこなっている。


「世界苦」というのは、現在の世界を思わせる。

100年後のわたしたちに向けて語られた、

まさに、そんな講演でもあったことになる。


松山小学校跡地は、現在、松山公園になっている。

廊下の窓から松山公園が見えるホテルに、かつて泊まった。

公園前の駐車場にレンタカーを停めて、朝取りに行き、

その折に公園を散歩した記憶が鮮明に残っている。


写真が出てこないので、先月末の松山公園の、

桜を撮った「Gakii's Barの肴」の記事をリンクさせていただく。

(参照:「花壇」 2020年1月29日

もはや、沖縄よりこちらの桜が気になる季節になった。


松山小学校(尋常小学校)は、その後国民学校となり、

隣の第二高等女学校とともに、沖縄戦で灰燼に帰した。

現在、沖縄に「松山小学校」という小学校はない。


同じ名前の小学校は、全国にたくさんありそうだ。

そう思って、ネットではあるが、ざっと調べてみた。


大崎(宮城県)に1校、酒田(山形県)に1校、

ラーメンで有名な喜多方(福島県)にも1校。

以上、東北地方に3校。

関東では、さくら市(栃木)に1校と少ない。

中部地方では、春日井と豊橋に1校ずつの2校。

どちらも、愛知県である。

近畿には見当たらず、中国地方も見つからない。

四国では、坂出(さかいで・香川)に1校。

愛媛の松山市には、「松山小学校」はない。

いずれも、「松山〇〇小学校」という名前だ。

埼玉県の東松山市にも松山小学校はない。

九州では、鹿児島県(志布志と知覧)に2校。

もっとあるような気がするが、合わせて9校。


そもそも、松という樹木は針葉樹(北方系)なので、

北海道や東北に、もっとあると思ったのだけれど。

たしかに針葉樹林帯の多い東日本の6校に対して、

西日本は3校で、差異があるとは言えるのだが。


室町時代から大掛かりな松の植林が始まった

近畿地方に、1校もないのが意外である。

鹿児島に2校あるというのも意外だった。

鹿児島の松山は、おそらく黒松である。

溶岩域に生える代表的な植物なので。

そして、沖縄の松山は琉球松なのだろう。


最近、調べる機会があって知ったのだが、

日本列島には、なんと1600万年前から、

松があったことがわかっているのだそうだ。


柳田国男、東京に帰って沖縄の話をする。
(2016.6.22 最近、奄美の地形が、やたら気になります。)


さて、柳田は2月9日に奄美大島の名瀬に到着して、

奄美に1週間滞在し、15日に鹿児島に着いた。


『海南小記』には、奄美諸島を取り上げた考察も多い。

たとえば、第1章第8節に載る「いれずみの南北」では、

奄美大島と宝島に触れて、薩南七島と琉球列島を比較し、

9、10、11節では、いずれも奄美大島を取り上げている。


「三太郎坂」では名瀬近辺の悲喜こもごもの逸話を。

「今何時ですか」は奄美の子どもの不思議な遊びを。

(ウニムチュー=鬼餅は沖縄と共通する習俗だが、

上海と同じ遊びがあるというのは興味がひかれる。)


「阿室の女夫松」では、奄美大島における祭祀を。

(奄美大島では、祝女(ノロ)の補佐役として、

「グジ」と呼ばれる男の補佐役が5名いて、

彼らが古代歌謡を伝承するという指摘には、

じつにさまざまなことを考えさせられる。)


12節では加計呂麻島と本島北部(国頭)を比較し、

13節は沖永良部島を取り上げた話題である。

(以前の記事で奄美諸島の写真を並べたのも、

『海南小記』のことを少し意識していたわけで。)


つまり、奄美諸島に関する、ほぼ6つの考察を書いている。

ちなみに、九州の日向(宮崎)が4節、豊後(大分)が2節と、

『海南小記』は決して沖縄のことばかりを書いてはいない。


沖縄本島は9節、八重山は4節なので、九州と沖縄は、

取り上げた話題の数では、ほとんど拮抗している。

(「沖縄を知る」ためには、これが妥当な方法だろう。

100年後の今でも。むしろ100年後の今だからこそ。)


それでも、『海南小記』の取り上げられるのが、

ほとんど沖縄とのかかわりにおいてであるのは、

柳田の最大の関心が沖縄に向かっているからであり、

その後100年にわたって生きる大きな設問の数々が、

沖縄を取り上げた節の中でなされているからである。


こんなふうに、今年は1月や2月ばかりではなく、

そのあともずっとメモリアルな日々が続いてゆく。

3月からは「海南小記」連載開始の100周年だし、

その連載は、このあと5月20日まで続くのである。


ちなみに、那覇が市になるのは、その年の、

つまり、1921年(大正10年)の5月20日。

奇遇にも、「海南小記」の連載最終日である。


柳田の出航は、泊港からだったはず。

100年前も、おそらく港の形は現在と同じ。

周囲に建物が建て込んだ都市の港湾だからだが、

逆に、それ以上拡張できないまま年月を重ねた。

その意味で離島航路に特化した現在のあり方は、

泊港にとってみても、幸せなことといえるだろう。



タグを入れたのは、何年ぶりだろう。

かつてはがんばって入れていたのだが、

いつしか面倒になって、やめてしまった。

いくつ入るかなと思ったら10個だった。

(ということすら、すっかり忘れていた。)


正直、「ウミガメと一緒に海に帰ったのか?」と、

思われるくらい更新できなくなるかとも思ったが、

(たぶん次に沖縄に行けるようになるくらいまで。)

「忙中閑あり」で、少しだけ時間がとれたので、

100年前の柳田国男のことだけはオトシマエを

(などと書けば物騒だが)、つけようと思った。


折口(釈迢空)よりは、やはり柳田が好きで、

彼が沖縄に滞在した100年前の追体験は、

(つまり去年の12月から今年の2月まで)

どこかで、しておきたかったなと考えている。


今年の5月15日も、どうなるかわからない。

むしろ、来年の「復帰50周年」の日程を、

すでに考えていたりする(ちょうど日曜日。)

とりあえず、日曜日というのはありがたい。





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