2017年06月06日
ドラマ「リバース」にクギヅケ!! (「テレビやめた」宣言は、いったいどうなった!?)
スージーさんが、最近の記事に、こんなことを書いている。
「あれだけ好きだったテレビをほとんど見なくなりました。
どちらかと言うと、テレビは消して本を見たり、
音楽を聴いたりという生活です。」(改行は、引用者)
ご同慶の至りである。
(参照:スージーさん、なんかいうてるよ~ 2nd stage「テレビっこ」)
ちなみに、かつての大阪での生活について、
「大阪に来て何が一番嬉しかったかというと、
「(テレビの)チャンネルがたくさんある!」ことでした(笑)」
と言うのは、「おいおい!」と突っ込まざるをえないが(^突^;
(6月は「スージー月間」なので、おそらく2記事に1回は、
スージーさんが登場します。もちろん勝手に決めたので、
「そら、あかんやろ」と言う人は、こちらで登場する前に、
スージーさん、なんかいうてるよ~2nd stageをご覧ください。)

ぼくはといえば、今年の元旦からテレビを見ないことに決めた。
決めたのだが、2月中旬に39日間で挫折して以来、
なんとなく見ることも少なくない(おそるべしテレビの吸引力、
いやいや・・・自分の意志の弱さ・・・汗)。
ただ、これもスージーさんに感化されて、
今年は本を200冊読むと決めたし、
やらなければいけないことも山積しているので、
テレビを見ている時間が余計にもったいない。
もったいないのだが、見てしまう番組がある。
ぼくの場合、それはドラマであり旅番組。
それから、「ブラタモリ」などの地域検証番組。
(これは商売道具なので、とりあえず除外。)
もちろん、沖縄番組は見逃せないのであるが、
キーワード検索でデッキが録画してくれるので、
もっぱら、それにまかせっきりで録画してもらい、
週末などに、まとめて見て、じんわりする。
(でもまだ見ていないものがどんどん溜る。)
旅番組については、また別の機会に・・・。
ここでは、ドラマについて書いておきたい。
現在(4月期)放送されているドラマの中でも、
TBSの「リバース」が、とんでもないクオリティだからだ。
じつは2月の途中までテレビを見なかったあと、
「カルテット」(これもTBS系列)にかなりハマった。
39日間で挫折したあと、娘が録画していたものが、
まだビデオデッキに数話残っていたので見てしまい、
完全にヤラレた。そして後半はリアルタイムで見た。
「カルテット」のクオリティの高さは群を抜いていた。
すくなくとも、2017年1月期(1~3月)のドラマにおいて、
それは、多少なりともドラマを見てきた人ならば、
だれもが容易に気づく、「群を抜く」様相だった。
(案の定、今年1~3期のドラマに与えられる、
専門家の評価は「カルテット」の独占状態だった。
・・・カルテットのカルテル状態・笑)

しかしそのクオリティの背景としてあるものは、
多くがシナリオ、それも会話の妙に負っていた。
つまり、演者の身体性に成否がかかっていた。
思い切って言えば、描かれた世界の大きさは、
じつに狭いものであり、いわば時代性に欠けた。
セカイ物であればよい、と言ってるわけではなく、
舞台が限定されていた点を言っているわけでもない。
別荘を中心に、きわめて限定された空間のなかで、
(あえて限定化した空間のなかで、と言い換えよう)
それまでどのようなドラマもなしえなかった会話性、
演劇にもとづきながら、しかし演劇とはまた異なった、
「新たなドラマの会話」という可能性を切り拓いた。
そのように称する以外にない細部へのこだわり、
その仕掛けと実際には目を見張るものがあった。
(いや、「耳を聴き張るもの」であるかな・・・。)
象徴的なのは、単なるミス(時計の時間合わせ)を、
時系列の錯綜と誤解したユーザーが多数いたこと。
ここまでならば、近年のネットユーザーの世界では、
決して珍しいことでも何でもなかったのであるが、
そのような話題がネット上をにぎわせた数日後に
TBSが談話を発表して、誤解を打ち消したこと
(制作側のミスであると積極的に発信したこと)は、
完全に、ひとつの時代を画する出来事だった。
もちろん、TBSの側には発信する義務などなく、
それは、ドラマによくある不備の一環であったのだし、
むしろ、前代未聞のアクションを起こすことによって、
「カルテット」の特異性を刻印する意図があったはずだが、
それほどに、このドラマは社会性との共鳴を呈しており、
前代未聞の完成度でユーザーの読解を喚起し続けていた。
ちょうど『騎士団長殺し』を再読・三読している時期だったので、
小説には(現在の紙メディアでは)絶対に表現することのできない、
たとえば「同時に話す」というフェイズを方法化した会話体系には、
ドラマというメディアのとんでもない可能性を見せつけられた。
つまり、そんなふうに「カルテット」は凄かったのである。
ただし、それをリアルタイムで語る体力と気力がなかった。
というより、『騎士団長殺し』をぼちぼち語るだけで、
その頃(2~3月頃)のぼくは精一杯であった。

もう9年も前になるが、「鹿男あをによし」を見て以来、
「これを超えるドラマは、もう出ないだろう」と思ってきた。
じっさい、それ以降、これを超えるドラマは存在しない。
(個人的に、ということではなく、あくまでも事実として。
う~ん・・・かなり思い切って言ったね・笑)
シナリオの完成度や、日進月歩のCGのクオリティ、
配役の妙や演者の共鳴、そして細部へのこだわり、
などなど、それぞれの要素を評価するのであれば、
これを超えるドラマは、間違いなくその後にもあった。
しかし、総合的なバランスやアミューズメントの質、
さらに言えば、その内部に時代性を抱え込んだ、
一回的な社会現象としての取り換えの利かなさで、
この10年間のドラマには「鹿男」を超えるものはない。
(全部どころか、ほとんど見ていないのではあるけれど、
そのくらいのことはわかります。蛇の道は蛇なので。)
そう思っていた信念が「Nのために」で少し揺らいだ。
そして、「Nのために」のスタッフが満を持して再集結した、
「リバース」で再び大きく揺らされているというのが現状だ。
そして、「カルテットは、またこれとは評価軸が異なる。
それは、たとえばドラマ以外のコンテンツにたとえれば、
今年上半期(1~6月)に日本語で書かれた小説の中で、
つまり、あくまでも「日本文学」として最も価値のあるものは、
又吉直樹の『劇場』であることは間違いないと判断できる。
しかし、世界文学という視座にフォーカスを合わせれば、
『劇場』は、『騎士団長殺し』を超えることができない。
そう言わざるを得ない時の感覚に、少し似ている。
「リバース」のタイトルをつけておきながら、
まだ、「カルテット」の話しかしていない(汗)
そう、昨日書きに書いてから消してしまった話題は、
いまさら言うまでもなく「リバース」についてだった。
まだ復元はほとんどできていないのだが、
その前に、なんでドラマを見ているのか、
言い訳を書かないといけないと思ったので、
ここまで書いてきたら、時間の余裕がなくなった。
かなり長い「前書き」になってしまったのだが、
「リバース」は目前の仕事を片付けてから語りたい。

え?画像ですか?
それは「謎解き」ということで・・・笑
「あれだけ好きだったテレビをほとんど見なくなりました。
どちらかと言うと、テレビは消して本を見たり、
音楽を聴いたりという生活です。」(改行は、引用者)
ご同慶の至りである。
(参照:スージーさん、なんかいうてるよ~ 2nd stage「テレビっこ」)
ちなみに、かつての大阪での生活について、
「大阪に来て何が一番嬉しかったかというと、
「(テレビの)チャンネルがたくさんある!」ことでした(笑)」
と言うのは、「おいおい!」と突っ込まざるをえないが(^突^;
(6月は「スージー月間」なので、おそらく2記事に1回は、
スージーさんが登場します。もちろん勝手に決めたので、
「そら、あかんやろ」と言う人は、こちらで登場する前に、
スージーさん、なんかいうてるよ~2nd stageをご覧ください。)
ぼくはといえば、今年の元旦からテレビを見ないことに決めた。
決めたのだが、2月中旬に39日間で挫折して以来、
なんとなく見ることも少なくない(おそるべしテレビの吸引力、
いやいや・・・自分の意志の弱さ・・・汗)。
ただ、これもスージーさんに感化されて、
今年は本を200冊読むと決めたし、
やらなければいけないことも山積しているので、
テレビを見ている時間が余計にもったいない。
もったいないのだが、見てしまう番組がある。
ぼくの場合、それはドラマであり旅番組。
それから、「ブラタモリ」などの地域検証番組。
(これは商売道具なので、とりあえず除外。)
もちろん、沖縄番組は見逃せないのであるが、
キーワード検索でデッキが録画してくれるので、
もっぱら、それにまかせっきりで録画してもらい、
週末などに、まとめて見て、じんわりする。
(でもまだ見ていないものがどんどん溜る。)
旅番組については、また別の機会に・・・。
ここでは、ドラマについて書いておきたい。
現在(4月期)放送されているドラマの中でも、
TBSの「リバース」が、とんでもないクオリティだからだ。
じつは2月の途中までテレビを見なかったあと、
「カルテット」(これもTBS系列)にかなりハマった。
39日間で挫折したあと、娘が録画していたものが、
まだビデオデッキに数話残っていたので見てしまい、
完全にヤラレた。そして後半はリアルタイムで見た。
「カルテット」のクオリティの高さは群を抜いていた。
すくなくとも、2017年1月期(1~3月)のドラマにおいて、
それは、多少なりともドラマを見てきた人ならば、
だれもが容易に気づく、「群を抜く」様相だった。
(案の定、今年1~3期のドラマに与えられる、
専門家の評価は「カルテット」の独占状態だった。
・・・カルテットのカルテル状態・笑)
しかしそのクオリティの背景としてあるものは、
多くがシナリオ、それも会話の妙に負っていた。
つまり、演者の身体性に成否がかかっていた。
思い切って言えば、描かれた世界の大きさは、
じつに狭いものであり、いわば時代性に欠けた。
セカイ物であればよい、と言ってるわけではなく、
舞台が限定されていた点を言っているわけでもない。
別荘を中心に、きわめて限定された空間のなかで、
(あえて限定化した空間のなかで、と言い換えよう)
それまでどのようなドラマもなしえなかった会話性、
演劇にもとづきながら、しかし演劇とはまた異なった、
「新たなドラマの会話」という可能性を切り拓いた。
そのように称する以外にない細部へのこだわり、
その仕掛けと実際には目を見張るものがあった。
(いや、「耳を聴き張るもの」であるかな・・・。)
象徴的なのは、単なるミス(時計の時間合わせ)を、
時系列の錯綜と誤解したユーザーが多数いたこと。
ここまでならば、近年のネットユーザーの世界では、
決して珍しいことでも何でもなかったのであるが、
そのような話題がネット上をにぎわせた数日後に
TBSが談話を発表して、誤解を打ち消したこと
(制作側のミスであると積極的に発信したこと)は、
完全に、ひとつの時代を画する出来事だった。
もちろん、TBSの側には発信する義務などなく、
それは、ドラマによくある不備の一環であったのだし、
むしろ、前代未聞のアクションを起こすことによって、
「カルテット」の特異性を刻印する意図があったはずだが、
それほどに、このドラマは社会性との共鳴を呈しており、
前代未聞の完成度でユーザーの読解を喚起し続けていた。
ちょうど『騎士団長殺し』を再読・三読している時期だったので、
小説には(現在の紙メディアでは)絶対に表現することのできない、
たとえば「同時に話す」というフェイズを方法化した会話体系には、
ドラマというメディアのとんでもない可能性を見せつけられた。
つまり、そんなふうに「カルテット」は凄かったのである。
ただし、それをリアルタイムで語る体力と気力がなかった。
というより、『騎士団長殺し』をぼちぼち語るだけで、
その頃(2~3月頃)のぼくは精一杯であった。
もう9年も前になるが、「鹿男あをによし」を見て以来、
「これを超えるドラマは、もう出ないだろう」と思ってきた。
じっさい、それ以降、これを超えるドラマは存在しない。
(個人的に、ということではなく、あくまでも事実として。
う~ん・・・かなり思い切って言ったね・笑)
シナリオの完成度や、日進月歩のCGのクオリティ、
配役の妙や演者の共鳴、そして細部へのこだわり、
などなど、それぞれの要素を評価するのであれば、
これを超えるドラマは、間違いなくその後にもあった。
しかし、総合的なバランスやアミューズメントの質、
さらに言えば、その内部に時代性を抱え込んだ、
一回的な社会現象としての取り換えの利かなさで、
この10年間のドラマには「鹿男」を超えるものはない。
(全部どころか、ほとんど見ていないのではあるけれど、
そのくらいのことはわかります。蛇の道は蛇なので。)
そう思っていた信念が「Nのために」で少し揺らいだ。
そして、「Nのために」のスタッフが満を持して再集結した、
「リバース」で再び大きく揺らされているというのが現状だ。
そして、「カルテットは、またこれとは評価軸が異なる。
それは、たとえばドラマ以外のコンテンツにたとえれば、
今年上半期(1~6月)に日本語で書かれた小説の中で、
つまり、あくまでも「日本文学」として最も価値のあるものは、
又吉直樹の『劇場』であることは間違いないと判断できる。
しかし、世界文学という視座にフォーカスを合わせれば、
『劇場』は、『騎士団長殺し』を超えることができない。
そう言わざるを得ない時の感覚に、少し似ている。
「リバース」のタイトルをつけておきながら、
まだ、「カルテット」の話しかしていない(汗)
そう、昨日書きに書いてから消してしまった話題は、
いまさら言うまでもなく「リバース」についてだった。
まだ復元はほとんどできていないのだが、
その前に、なんでドラマを見ているのか、
言い訳を書かないといけないと思ったので、
ここまで書いてきたら、時間の余裕がなくなった。
かなり長い「前書き」になってしまったのだが、
「リバース」は目前の仕事を片付けてから語りたい。
え?画像ですか?
それは「謎解き」ということで・・・笑
お返事が遅くなる場合があります。あしからず。