2022年06月15日

琉球藩設置から150年目の2022年に。

1972年から50年目の2022年がやってきて、

その5月15日が過ぎ、早くも6月になりました。

6月15日。もうすぐ目の前には6月23日。


「復帰50年」のことはあちこちで話題になり、

じっさい、内地でもテレビや新聞・雑誌などで、

さまざまな特集が組まれて、報道が続いてきました。


ただ、内地の報道は情報不足の面は否定できず、

興味深いのは『琉球新報』にずっと掲載されていた、

「50年前きょうの一面」が圧倒的な情報量で読みごたえがあり、

もちろん、そもそも比較できることではないのですけれど・・・。


それらを読みながら、何度も繰り返して思ったのですが、

50年というのは、そのひとつひとつが重い年月であり、

自分にそれ以上のことが書けるとは思えないということ。

そんなこともあって、5月にはなかなか記事を書けずに、

(今さらながら、ここ数年、ぐだぐだのペースのまま・・・)

3年ぶりに沖縄に行けた勢いで書いた記事が4つ。

そして、そのあとなんとかがんばってもう1記事。


まあ、でも、それは個人的には思い出深い記事たちで、

ひさしぶりの沖縄にいられるあいだの「心躍り」、

そして「憤り」や「切なさ」や「無力感」なども含めて、

さまざまな感情を呼び起こす「よすが」でした。


それにしても、「復帰50年」。

昨年の11月、瀬戸内寂聴さんについて触れた記事で、

寂聴さんの誕生日が、1922年5月15日であること、

つまり、「復帰」の50年前であったことを書きました。

京都タワーの下で、かにぱんを食べた話。

「50年」について書いたのは、ほとんどそれ以来でしょうか。


へそ曲がりなので、1972年から100年前の話をしましょう。

今年から数えれば、ちょうど150年前のことになります。


1872年(明治5年)、琉球藩が設置された年のこと。

日本に野球が持ち込まれたのと同じ年、ということですね。


琉球藩設置から150年目の2022年に。
(2022年5月14日 那覇)


「琉球処分」というのは、もちろん明治12年のことですが、

ぼくは、この明治5年に琉球処分は始まったと考えます。

いやいや、「ぼくは」などと言うまでもなく、

那覇市歴史博物館の記念企画展示の資料にも、

翌日向かった平和祈念資料館の展示解説にも、

明治5年が「はじまり」なのだと書かれていました。


「琉球藩を廃し琉球県を置いた」というのが、

とりあえずダイレクトな「琉球処分」の説明なので、

「琉球藩がなければ琉球処分もなかった」という、

そういう理解になってきているんだなと思わせられました。


それで納得、というのもわるくはないのかもしれませんが、

自分なりに少し考えてみたいと思います。


琉球藩設置から150年目の2022年に。
(同上)


ひとつは、琉球処分のきっかけ(と明治政府が規定したもの)が、

1871年の台湾での宮古島島民の遭難(襲撃)事件であったこと。

次に、清国との交渉の席上(1872年5月)、井上馨(大蔵大輔)が、

琉球を日本の管轄に戻すことにより祖国の単一を可能ならしめんと、

はじめて、琉球併合が提案されたこと。つまり、1872年に、

「琉球併合」が初めて公式のテーブルにのぼったのです。


それに先立ち、この年の1月、明治政府の役人が渡琉して、

琉球王国が薩摩藩(島津)に負っていた負債の放棄をもちかけ、

王国の同意を得て、旧幕時代の薩琉関係の清算を始めます。


この時、内地から琉球に渡った役人のひとりが、

のちに『沖縄志』を編む伊地知貞馨(いじち・さだか)でした。

(伊地知貞馨であったかどうかは、さだかではない。

と書いてみたいのですが、確実に、さだかでした。

すみません。話が、よけいにややこしくなりました・汗)


『沖縄志(一名、琉球志)』。

明治時代最初の、まともな琉球誌ですね。

今は復刻版も出ていますが、読みでがあります。


琉球訪問の5年後(1877年)には出版されていて、

冒頭にずらずらっと掲げられた引用書目を見ているだけで、

それだけで、文句なしに「これはすごいな」と思います。


伊地知は、元は薩摩藩の藩士でしたから、

(それどころか、大久保利通と並んで、

島津久光の懐刀、それも二枚看板でした。)

薩摩との関係の清算は忸怩たる思いもあったでしょう。


ただ、1861年の久光による倒幕出兵計画の際、

連座して、それ以後は薩摩藩政とは距離を置いたので、

(とはいえ、薩摩藩の対外貿易には、この人の力が必要で、

その際、琉球に滞在した経験が、のちの『沖縄志』に生きました。)

大久保と共に、明治新政府に出仕する機会もあったのでしょう。


琉球との交渉に当たるには、うってつけの人選に違いありません。

しかし、琉球との関わりが濃すぎたために、のちに賄賂を咎められ、

明治政府から追い出される形で失職し、1887年に亡くなっています。

『沖縄志』の出版から、ちょうど10年後のことでした。


1872年の7月、すでに明治維新からは5年もたっているのですが、

琉球藩は、明治新政府に対して維新の成功を祝うべきだと告げられます。

つまり、明治天皇の前にかしづき、主従関係を認めろというのですね。


この時、東京に派遣されたのは伊江王子と宜野湾親方(うぇーかた)でした。

9月14日に明治天皇に尚泰王の書簡を渡し、天皇の演説を聞いている。

外務卿の副島種臣が代読した詔書では、尚泰を琉球「藩王」と呼び、

(前年1871年に「廃藩置県」が行なわれていたのにもかかわらず)

この時点では明治政府の琉球への向き合い方は定まっていません。

ただ、この月のうちに明治政府は、琉球王国が外国と結んだ条約を、

(具体的には、アメリカ・フランス・オランダとのいずれも修好条約を)

すべて政府が引き継ぐという太政官布告を発布しています。


つまり「琉球処分」という呼び方の、

日本国による琉球沖縄支配の歴史を見るうえで、

1872年(明治5年)9月14日。

この日付を見のがすことはできません。


「清国との交渉の席上(1872年5月)、井上馨(大蔵大輔)が、

琉球を日本の管轄に戻すことにより祖国の単一を可能ならしめんと、

はじめて、琉球併合が提案された」のが、ほかならぬ5月であり、

それが明治政府に持ち帰られて醸成を始めるのが6月です。


このようにして、1879年の沖縄藩設置に向けて、

明治政府は琉球藩に対して内政と外交との両面から、

大日本帝国への併合を実質的に着実に進めて行きます。

つまり、「琉球処分は1872年から始まっていた」と、

先に述べたのは、以上のような理由からです。


琉球藩設置から150年目の2022年に。
(2022年5月15日 本部)


以上は、あくまでも個人的な理解です。

ただ、先ほど「流れ」と書きましたけれど、

その「流れ」を作ってきた人もいるわけで、

琉球処分が1872年から始まるということは、

たとえば、『日本大百科全書(ニッポニカ)』に、

高良倉吉さんが、次のように明確に書いています。

1872年の琉球藩設置から80年の中国(清(しん)国)と明治政府の外交問題である分島問題までの一連の過程(いわゆる琉球帰属問題)をさして広義に使う場合もある。


また、『百科事典マイペディア』の記述は、さらに辛辣です。

1872年の琉球藩設置から1879年の廃藩置県までの一連の施策のことで,単なる廃藩置県ではなく,明治政府自身が〈処分〉といっているように,一方的に強権をもって断行したものであった。


「1872年の琉球藩設置が琉球処分のはじまりだった」と、

最初に明記したのは、グレゴリー・スミッツのようです。

(Smits, Gregory (1999). Visions of Ryukyu. University of Hawai'i Press. pp. 143–146)


それが、どのような根拠に基づくものなのか、

もちろん確認する必要があるでしょう。


「琉球処分」の端緒から150年。


それから150年後の日本人として、

(沖縄人としてではなく日本人として)

単なる「記念」とはとても言えない、

そんな「150年目」ではありますが、

「50年目の5月15日」と同じように、

心にとめておいてよいことだと思うのです。





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