2005年12月30日
1枚だけの写真
6月の沖縄旅行、辺野古には3時間ほどいた。
6月24日。県立博物館から中グスク跡に回り、中村家住宅を経て向かったのだ。
6月22日の到着日に行けば、帰着日まで毎日通うことになる可能性があった。実際、そのような形で沖縄滞在期間を過ごしたこともあったし、それはぼく自身の選択にもとづいたことだった。
ただし、6月には他に目的があったので、それを果たしてから赴いたのだ。そこに少なからぬ負い目があったことは否定できない。
2004年の4月19日(長期の入院をはじめた日なので忘れない)にはじまった「座り込み」のあいだぼくがしたことといえば、退院・自宅療養後にPCを通して辺野古からの報告を読み、そして何度かメッセージとカンパを送った程度。
何度も、「行きたい」「行くべきだ」と思っているあいだに、「座り込み」をめぐる報道から受けるノイズが拡大し、いったい何が真実で何が虚偽なのかがわからなくなってきた。
・・・「自分への言いわけ」なのだけれど。
6月25日、午後。
辺野古に到着したぼくたちを、見慣れた顔が迎えてくれた。開口一番、入院されたという話を伺ったので驚いたが、もうだいじょうぶだということで安心した。
ぼくも、入院のことなどがあって、長く訪問できなかったことをわびた。
いつも通り、笑顔で、そんなことは気にしなくていいと言ってくださった。
防衛施設庁の出すボーリング調査のためのボートが、いつもの引き上げ時刻になっても引き上げず、海上で緊迫した追跡が行われた。
そのため、カヌーやボートが「テント」の前に帰ってきたのは、通常より1時間も遅れてのことだった。
そのあいだ、ぼくと中屋ヒロキは、テントに残っていたかたがたと他愛もない話をし(はじめて辺野古に行った中屋は、ずいぶん真摯なレクチャーを受けたらしい)、海上に出ていた人々を拍手で迎える輪のいちばん外にそっと加わり、その後しばらく内地からきている人と話をした。
そのあいだ、ぼくの心には違和感と呼ぶべき感情が芽生えたまま、最後まで消えることはなかった。
その違和感は、97年に辺野古を訪れて以来、常に「運動」の中心となってきた年配のかたがた、何人かは顔を見知ったかたがたが(多くは、その場におられなかった)、あまりうれしそうではなかった所から生じていたのだと思う。
もちろん、うれしいはずなどない。しかし、8年間のうちには、もっとひどい状態のときもあり(反対運動に加わるかたがたの平均年齢が70歳を越えたときもある)、それでも「小屋」のお年寄りたちは生き生きとしておられた。こちらが勇気付けられるほど、あっけらかんと笑っていた。
それは、「自分たちの手で、かけがえのない運動をしている」という充足感ゆえではなかったか?
【辺野古の中心街に咲き誇っていた鳳凰木。
ホウオウボクという名は、るぅ~るぅ~さんに教えてもらったのだった。】
実際、今月(2005年12月)の23日には56艘にものぼる船やカヌーによって、米軍ヘリポート建設反対のアピールが行われ(参照1・参照2)、沖縄県議会で米軍再編に向けての日米合意に反対する決議が議決されるなどのことは、「運動」の拡大によって可能となったことどもであろう。
しかし、ぼくには、それまで辺野古に住む人々を中心におこなわれていた「運動」が、2年ほど見ないあいだに整然とシステム化され、いままで見たことのない若い人たち中心におこなわれていることに、うまくなじめなかった。
おそらく、そのような気持ちが態度に出たのだろう。内地から来ているというひとりが、ぼくに向かって「平和学習」にやってくる学校関係者の能天気さを話しだした。
すべてを書くつもりはないけれど、おおかたは前回の記事に書いたようなことだ。
大阪でも、辺野古支援の活動は毎週おこなわれている。しかし、事実としてぼくは、一度も参加していない。
なぜ参加しないのか、それを言い始めればキリがない。そして、言えばすべて言いわけになるだろう。
・・・さまざまな気持ちが沸いて、うまくコトバにすることができない。
今回、辺野古の海を写すことができなかった。そんなぼくの代わりに、中屋ヒロキが一枚だけ撮ってくれていた。
その写真は、保存しておこうと思う。これまでたくさん撮りためた、辺野古の海の他の写真と一緒に。
6月24日。県立博物館から中グスク跡に回り、中村家住宅を経て向かったのだ。
6月22日の到着日に行けば、帰着日まで毎日通うことになる可能性があった。実際、そのような形で沖縄滞在期間を過ごしたこともあったし、それはぼく自身の選択にもとづいたことだった。
ただし、6月には他に目的があったので、それを果たしてから赴いたのだ。そこに少なからぬ負い目があったことは否定できない。
2004年の4月19日(長期の入院をはじめた日なので忘れない)にはじまった「座り込み」のあいだぼくがしたことといえば、退院・自宅療養後にPCを通して辺野古からの報告を読み、そして何度かメッセージとカンパを送った程度。
何度も、「行きたい」「行くべきだ」と思っているあいだに、「座り込み」をめぐる報道から受けるノイズが拡大し、いったい何が真実で何が虚偽なのかがわからなくなってきた。
・・・「自分への言いわけ」なのだけれど。
6月25日、午後。
辺野古に到着したぼくたちを、見慣れた顔が迎えてくれた。開口一番、入院されたという話を伺ったので驚いたが、もうだいじょうぶだということで安心した。
ぼくも、入院のことなどがあって、長く訪問できなかったことをわびた。
いつも通り、笑顔で、そんなことは気にしなくていいと言ってくださった。
防衛施設庁の出すボーリング調査のためのボートが、いつもの引き上げ時刻になっても引き上げず、海上で緊迫した追跡が行われた。
そのため、カヌーやボートが「テント」の前に帰ってきたのは、通常より1時間も遅れてのことだった。
そのあいだ、ぼくと中屋ヒロキは、テントに残っていたかたがたと他愛もない話をし(はじめて辺野古に行った中屋は、ずいぶん真摯なレクチャーを受けたらしい)、海上に出ていた人々を拍手で迎える輪のいちばん外にそっと加わり、その後しばらく内地からきている人と話をした。
そのあいだ、ぼくの心には違和感と呼ぶべき感情が芽生えたまま、最後まで消えることはなかった。
その違和感は、97年に辺野古を訪れて以来、常に「運動」の中心となってきた年配のかたがた、何人かは顔を見知ったかたがたが(多くは、その場におられなかった)、あまりうれしそうではなかった所から生じていたのだと思う。
もちろん、うれしいはずなどない。しかし、8年間のうちには、もっとひどい状態のときもあり(反対運動に加わるかたがたの平均年齢が70歳を越えたときもある)、それでも「小屋」のお年寄りたちは生き生きとしておられた。こちらが勇気付けられるほど、あっけらかんと笑っていた。
それは、「自分たちの手で、かけがえのない運動をしている」という充足感ゆえではなかったか?
【辺野古の中心街に咲き誇っていた鳳凰木。
ホウオウボクという名は、るぅ~るぅ~さんに教えてもらったのだった。】
実際、今月(2005年12月)の23日には56艘にものぼる船やカヌーによって、米軍ヘリポート建設反対のアピールが行われ(参照1・参照2)、沖縄県議会で米軍再編に向けての日米合意に反対する決議が議決されるなどのことは、「運動」の拡大によって可能となったことどもであろう。
しかし、ぼくには、それまで辺野古に住む人々を中心におこなわれていた「運動」が、2年ほど見ないあいだに整然とシステム化され、いままで見たことのない若い人たち中心におこなわれていることに、うまくなじめなかった。
おそらく、そのような気持ちが態度に出たのだろう。内地から来ているというひとりが、ぼくに向かって「平和学習」にやってくる学校関係者の能天気さを話しだした。
すべてを書くつもりはないけれど、おおかたは前回の記事に書いたようなことだ。
大阪でも、辺野古支援の活動は毎週おこなわれている。しかし、事実としてぼくは、一度も参加していない。
なぜ参加しないのか、それを言い始めればキリがない。そして、言えばすべて言いわけになるだろう。
・・・さまざまな気持ちが沸いて、うまくコトバにすることができない。
今回、辺野古の海を写すことができなかった。そんなぼくの代わりに、中屋ヒロキが一枚だけ撮ってくれていた。
その写真は、保存しておこうと思う。これまでたくさん撮りためた、辺野古の海の他の写真と一緒に。
Posted by び ん at 08:15│Comments(3)
この記事へのコメント
今晩わ~
「辺野古」問題・・実は私・・複雑なんです^^;
友達が辺野古の反対派の方たちと逆の立場にあるもんで・・
何度かボーリング調査のため、海にもぐったようです。
いろんな背景とかあるので詳しくはいえませんけど・・
彼らも仕事なのでしかたないんですけどね。
なので~この辺野古の件は静観してるんです。
「辺野古」問題・・実は私・・複雑なんです^^;
友達が辺野古の反対派の方たちと逆の立場にあるもんで・・
何度かボーリング調査のため、海にもぐったようです。
いろんな背景とかあるので詳しくはいえませんけど・・
彼らも仕事なのでしかたないんですけどね。
なので~この辺野古の件は静観してるんです。
Posted by ゆうな at 2005年12月30日 18:54
わかります・・・わかると思います。
たとえば防衛施設庁那覇防衛施設局の職員が、何か不正をしているわけでは決してない。
誰もが米軍基地に正面から反対を唱えられる立場にいるわけではない。
ただ、ものすごい額の補助金で発言を封じられていた海人が、ここに来て反対派に身を投じたりという動きがあります。表面では基地を容認しなければならない職業や立場の人が基地反対運動を支えていたり(その逆もあるのかもしれません)、問題は複雑ですが、やはりひとつでも多くの事実を知ることは大事なことだと思っています。
お友達、大変なお仕事だと思いますが、反対派のかたがたも、実際に仕事に当たられるかたの安全にが最大限配慮されていると聞きました。
貴重なお話を聞ける(制約はあると思いますが)お友達がいて、うらやましいと思いました。
たとえば防衛施設庁那覇防衛施設局の職員が、何か不正をしているわけでは決してない。
誰もが米軍基地に正面から反対を唱えられる立場にいるわけではない。
ただ、ものすごい額の補助金で発言を封じられていた海人が、ここに来て反対派に身を投じたりという動きがあります。表面では基地を容認しなければならない職業や立場の人が基地反対運動を支えていたり(その逆もあるのかもしれません)、問題は複雑ですが、やはりひとつでも多くの事実を知ることは大事なことだと思っています。
お友達、大変なお仕事だと思いますが、反対派のかたがたも、実際に仕事に当たられるかたの安全にが最大限配慮されていると聞きました。
貴重なお話を聞ける(制約はあると思いますが)お友達がいて、うらやましいと思いました。
Posted by びん at 2005年12月30日 21:07
安全にが→安全には
でした。
でした。
Posted by びん at 2005年12月30日 21:08
お返事が遅くなる場合があります。あしからず。