2006年10月20日
魯迅忌
今から70年前のこと。
1936年10月19日午前5時25分(日本時間6時25分)、
中国近代文学の父・魯迅(ろじん)は、上海で、その生涯を閉じた。享年56。
上海で、魯迅故居を案内していただく予定にしていた日は朝から雨が降り、
雨をおしてまで行く気になれず、ホテルの目の前にある上海博物館に切り替えたのだった。
故居を訪れるのであれば、また、魯迅のためだけに来ればいい。
魯迅が亡くなる直前に書いた書き付けを、
そういえば厦門(アモイ)大学で見たのだった。
魯迅が住んでいたままの形を保存する記念館。
計200㎡ほどあろうかという2階の4室が展示に充てられていた。
魯迅が厦門にいたのは、1926年(つまり、亡くなる10年前)の約半年間。
3・18事件で北京を追われ、厦門大学で中国文学史の教授となったのである。
しかし、厦門大学の教育方針に反発し、1年もたたずにそこを飛び出したという。
それほど短期間であったにもかかわらず、魯迅の離職を惜しむたくさんの学生が、
名前と言葉を連ねた寄せ書きが魯迅記念館に展示されていて、強く印象に残った。
魯迅といえば、ぼくには「故郷」。
たしか中学2年の教科書で出会ったその小説は、ある意味、衝撃であった。
たぶん、小説というのは、「夢」や「希望」を描くものだと夢想していたからだろう。
あるいはまた、その小説が「大人になることの残酷さ」を余す所なく描いていたからだろう。
そんな小説には、それまで出会ったことがなかった(出会っていても読みとることができなかった)。
そして、ふと気づけば、
ぼくにとっての「故郷」は、魯迅の小説の通りではあるまいか。

しかしそれにしても魯迅に感じるこの親近感は、どこから来るのだろう?
ひとつだけ言えることは、紹興に生まれ、南京・東京(日本)・仙台・杭州・紹興・南京・北京・厦門・甲州・上海と「逃走」を続けたその生涯が、じつによく理解できるからだろう。
日本留学時代、魯迅は仙台の医専(医学専門学校)に入ったが、生涯の生業を文学に定める決心を固めて医専を退学した。
それが今から100年前、1906年のことであった。
明治39年。漱石が『坊ちゃん』を発表した年である。
そして、その年に漱石が住んでいた本郷西片町の家を、
翌年漱石の転居後、まったく偶然に魯迅が借りて住むことになる。
魯迅魯迅・・・とつぶやき上海の写真を選んだら、上のような写真になった。
やはり、魯迅といえば陋巷の人々であるからなぁ、としばしナットクしていたが、
(無礼な言い方であるとは自覚しつつ、「下町」や「庶民」ではしっくりこないので)
ただひたすら単純に、「魯迅」と「路地」のシャレから来たのかもしれないと気がついた。
さて、70年後の「わが祖国」を見たならば、彼はどんな感想を漏らすことだろう。
一日遅れの記事ではあるが、しきりに魯迅のことがしのばれたので記しておく。
1936年10月19日午前5時25分(日本時間6時25分)、
中国近代文学の父・魯迅(ろじん)は、上海で、その生涯を閉じた。享年56。
上海で、魯迅故居を案内していただく予定にしていた日は朝から雨が降り、
雨をおしてまで行く気になれず、ホテルの目の前にある上海博物館に切り替えたのだった。
故居を訪れるのであれば、また、魯迅のためだけに来ればいい。
魯迅が亡くなる直前に書いた書き付けを、
そういえば厦門(アモイ)大学で見たのだった。
魯迅が住んでいたままの形を保存する記念館。
計200㎡ほどあろうかという2階の4室が展示に充てられていた。
魯迅が厦門にいたのは、1926年(つまり、亡くなる10年前)の約半年間。
3・18事件で北京を追われ、厦門大学で中国文学史の教授となったのである。
しかし、厦門大学の教育方針に反発し、1年もたたずにそこを飛び出したという。
それほど短期間であったにもかかわらず、魯迅の離職を惜しむたくさんの学生が、
名前と言葉を連ねた寄せ書きが魯迅記念館に展示されていて、強く印象に残った。
魯迅といえば、ぼくには「故郷」。
たしか中学2年の教科書で出会ったその小説は、ある意味、衝撃であった。
たぶん、小説というのは、「夢」や「希望」を描くものだと夢想していたからだろう。
あるいはまた、その小説が「大人になることの残酷さ」を余す所なく描いていたからだろう。
そんな小説には、それまで出会ったことがなかった(出会っていても読みとることができなかった)。
そして、ふと気づけば、
ぼくにとっての「故郷」は、魯迅の小説の通りではあるまいか。

しかしそれにしても魯迅に感じるこの親近感は、どこから来るのだろう?
ひとつだけ言えることは、紹興に生まれ、南京・東京(日本)・仙台・杭州・紹興・南京・北京・厦門・甲州・上海と「逃走」を続けたその生涯が、じつによく理解できるからだろう。
日本留学時代、魯迅は仙台の医専(医学専門学校)に入ったが、生涯の生業を文学に定める決心を固めて医専を退学した。
それが今から100年前、1906年のことであった。
明治39年。漱石が『坊ちゃん』を発表した年である。
そして、その年に漱石が住んでいた本郷西片町の家を、
翌年漱石の転居後、まったく偶然に魯迅が借りて住むことになる。
魯迅魯迅・・・とつぶやき上海の写真を選んだら、上のような写真になった。
やはり、魯迅といえば陋巷の人々であるからなぁ、としばしナットクしていたが、
(無礼な言い方であるとは自覚しつつ、「下町」や「庶民」ではしっくりこないので)
ただひたすら単純に、「魯迅」と「路地」のシャレから来たのかもしれないと気がついた。
さて、70年後の「わが祖国」を見たならば、彼はどんな感想を漏らすことだろう。
一日遅れの記事ではあるが、しきりに魯迅のことがしのばれたので記しておく。
Posted by び ん at 18:25│Comments(4)
この記事へのトラックバック
阿藤快ふう稲嶺さん、結局あんたも自分が心底かわいいわけだというか、二度と表に出てくるなよ...プンプン (byさと★珠緒)【追記】といいますか、ダラダラやってんじゃねーの...
なんだかな....【フーテンの翻訳人♭】at 2006年10月23日 08:58
この記事へのコメント
今 「故郷」読んでみましたが全く覚えがないのです。
私の記憶ではなぜか「ろじん」ではなくて「ルーシュン」
先生がそう発音していたのかしら?
そして「魯迅」で思い出すのは すべり止めに受けた私立高校の
受験問題だった事だけが強烈です。
なのにその内容が全く覚えが無いとは・・・(;^_^A)
私の記憶ではなぜか「ろじん」ではなくて「ルーシュン」
先生がそう発音していたのかしら?
そして「魯迅」で思い出すのは すべり止めに受けた私立高校の
受験問題だった事だけが強烈です。
なのにその内容が全く覚えが無いとは・・・(;^_^A)
Posted by のほほん at 2006年10月21日 21:41
覚えがありませんか?
魯迅は、小説の最後に忘却装置を埋め込みますからね。
・・・うそです、すみません。「故郷、忘るべからず」(笑)
ぼくは『徒然草』でしたね。猫又。
すべり止め受けてなかったので、すべらない靴はいて^^
ルーシュンという発音は、耳触りが柔らかくて好きです。
魯迅は、小説の最後に忘却装置を埋め込みますからね。
・・・うそです、すみません。「故郷、忘るべからず」(笑)
ぼくは『徒然草』でしたね。猫又。
すべり止め受けてなかったので、すべらない靴はいて^^
ルーシュンという発音は、耳触りが柔らかくて好きです。
Posted by びん at 2006年10月21日 22:59
びんどの こんにちは
僭越ながら、貴殿の記事に魯迅は心底喜んでいると思われます
文学を選択した魯迅、正解だったのではないでしょうか
写真も雰囲気がいいですね(こういう風景はホッとします)
あっ、魯迅評論集(竹内好訳)読みかけだったっす...
僭越ながら、貴殿の記事に魯迅は心底喜んでいると思われます
文学を選択した魯迅、正解だったのではないでしょうか
写真も雰囲気がいいですね(こういう風景はホッとします)
あっ、魯迅評論集(竹内好訳)読みかけだったっす...
Posted by ロボ太 at 2006年10月22日 10:19
読みかけでしたか・・・
ぼくも、Tバック忘れてました(汗)
魯迅は、幾重もの意味で胸の奥を去らない作家です。
ぼくも、Tバック忘れてました(汗)
魯迅は、幾重もの意味で胸の奥を去らない作家です。
Posted by びん at 2006年10月22日 17:35
お返事が遅くなる場合があります。あしからず。