破壊って何? (聖地報告3)

び ん

2006年05月04日 00:51

前の記事に、つい「破壊」と書いた。

でも、「破壊」って、一体なんだろう?


たとえば、グスクの遺構である石段に、

パイプの手すりをつけるのは、破壊?



じつは、この階段をのぼったところには私有地がひろがっている。

かつてはグスクの域内であったはずの場所なのだが、

かつてのグスク内に民家を建てて住むことは、破壊?


たまたまそこに住む住人の方と出会って話をしたのだ。

大阪から来たと言うと、「そんなに遠くから」とおどろかれた。

とても気前のよい方で、「ここは本来グスク内では?」とは到底聞けなかった。




少し前に、世界遺産に落書きをしてつかまった修学旅行生のニュースがあった。

落書きは、もちろん文化財の破壊であるけれど、

では、大里グスク内の東屋に書かれた「城」の大文字は?(前の記事参照)

この東屋が、いつ、誰によって、どんな目的で建てられたのか、

調べた限りの情報からは、わからなかった・・・


現状に手を加えることが、すべて破壊ではないだろう。

では、どの範囲までが、許されるものだろうか?


もちろんそれは、ケースバイケース。

文化財に限ってみても、千差万別であるにちがいない。


思い出すのは、高松塚古墳にキトラ古墳。

破壊を目的にしない、結果的な破壊というものもある。


そして、もの皆、自然状態におけば劣化してゆく。

つまり、ゆっくりと破壊し、破壊され続ける。

それを防ごうとする手立てが、どこまで「保存」であり、

そして、どこからが「破壊」なのだろうか・・・


人間が踏み込んで歩けば、

劣化の速度は必ず早まる。

では、「観光地化」というのは、

「破壊の手助け」とも言い換えうる。

しかし、観光地化することで(収入が確保されることで)

保存が可能になるというケースも、多々存在するのだ。


たくさんの人がくることで劣化(破壊)の速度が早くなり、

しかし、入場料その他の収入で現状保存がなされるのと、

観光地化には距離を置き、そのために自然劣化にまかせたまま

静かに、誰にも知られることなく朽ちてゆくのと、どちらが「破壊」なのだろう?




「人」がいて、「物」がある。

「物」は、「人」によってつくられる。

つくられた「物」は、しばしば「人」を縛る。




ただし、物には「物の記憶」がある。

土地には「土地の記憶」というものがある。

たとえば、米軍基地に摂取されたウタキは聖地か?

もちろん、その場所・土地が存在する限り、聖地であろう。

そのような「土地の記憶」「土地の来歴」をフェンスが阻害するのであれば、

それはいくら現状保存されていても、「破壊」なのではないかと思う。



聖なるものが破壊される。

破壊した者は、聖なるがゆえに破壊したのか。

それとも、そんなことは考えもせず破壊したのか。


破壊とは、「物」自体に付随するのか。

それとも、それを破壊と考える「人」に付随するのか。


ひとつ間違いのないことは、

破壊は、「物」だけを損なうのではなく、

しばしば、「人」をも損なうということ。


破壊されたと感じた「人」がいれば、

やはりそれは「破壊」なのだと思う。


社会性の網の目の中で、

「破壊」と感じる最低限の線引きは

やはり保たれるべきなのだろう。



とりとめもなく、そんなことを考える。

考えがまとまったわけではない。

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