前の記事に、つい「破壊」と書いた。
でも、「破壊」って、一体なんだろう?
たとえば、グスクの遺構である石段に、
パイプの手すりをつけるのは、破壊?
じつは、この階段をのぼったところには私有地がひろがっている。
かつてはグスクの域内であったはずの場所なのだが、
かつてのグスク内に民家を建てて住むことは、破壊?
たまたまそこに住む住人の方と出会って話をしたのだ。
大阪から来たと言うと、「そんなに遠くから」とおどろかれた。
とても気前のよい方で、「ここは本来グスク内では?」とは到底聞けなかった。
少し前に、世界遺産に落書きをしてつかまった修学旅行生のニュースがあった。
落書きは、もちろん文化財の破壊であるけれど、
では、大里グスク内の東屋に書かれた「城」の大文字は?(前の記事参照)
この東屋が、いつ、誰によって、どんな目的で建てられたのか、
調べた限りの情報からは、わからなかった・・・
現状に手を加えることが、すべて破壊ではないだろう。
では、どの範囲までが、許されるものだろうか?
もちろんそれは、ケースバイケース。
文化財に限ってみても、千差万別であるにちがいない。
思い出すのは、高松塚古墳にキトラ古墳。
破壊を目的にしない、結果的な破壊というものもある。
そして、もの皆、自然状態におけば劣化してゆく。
つまり、ゆっくりと破壊し、破壊され続ける。
それを防ごうとする手立てが、どこまで「保存」であり、
そして、どこからが「破壊」なのだろうか・・・
人間が踏み込んで歩けば、
劣化の速度は必ず早まる。
では、「観光地化」というのは、
「破壊の手助け」とも言い換えうる。
しかし、観光地化することで(収入が確保されることで)
保存が可能になるというケースも、多々存在するのだ。
たくさんの人がくることで劣化(破壊)の速度が早くなり、
しかし、入場料その他の収入で現状保存がなされるのと、
観光地化には距離を置き、そのために自然劣化にまかせたまま
静かに、誰にも知られることなく朽ちてゆくのと、どちらが「破壊」なのだろう?
「人」がいて、「物」がある。
「物」は、「人」によってつくられる。
つくられた「物」は、しばしば「人」を縛る。
ただし、物には「物の記憶」がある。
土地には「土地の記憶」というものがある。
たとえば、米軍基地に摂取されたウタキは聖地か?
もちろん、その場所・土地が存在する限り、聖地であろう。
そのような「土地の記憶」「土地の来歴」をフェンスが阻害するのであれば、
それはいくら現状保存されていても、「破壊」なのではないかと思う。
聖なるものが破壊される。
破壊した者は、聖なるがゆえに破壊したのか。
それとも、そんなことは考えもせず破壊したのか。
破壊とは、「物」自体に付随するのか。
それとも、それを破壊と考える「人」に付随するのか。
ひとつ間違いのないことは、
破壊は、「物」だけを損なうのではなく、
しばしば、「人」をも損なうということ。
破壊されたと感じた「人」がいれば、
やはりそれは「破壊」なのだと思う。
社会性の網の目の中で、
「破壊」と感じる最低限の線引きは
やはり保たれるべきなのだろう。
とりとめもなく、そんなことを考える。
考えがまとまったわけではない。