「リバース」(TBS系・金曜夜10時~)から、ますます目が離せない・・・!

び ん

2017年06月07日 00:07

われわれ人類が、はじめて再生の象徴としたもの、

それが太陽であったことは、間違いのないところだろう。


TBS系列のドラマ「リバース」は、そのあたりの事情を、

じつにうまくドラマの中に織り込んでいて、秀逸だ。


とくに、5月26日(金)放送の第7回では、

夕陽に込められた人間のせつない情愛を描いて、

ドラマ史に残る、見事な描写となっていた。



(2016.9.4 那覇)


ところで、この「リバース」、ドラマのメタファーとして、

「野球」を、なかなかうまく取り入れて描いている。

(あくまでも、文脈として、ということであるが。

おそらく、湊かなえの原作が、そうなのだろう。)


ただし、ドラマの中での野球の扱い方(映し方)は、

残念だが全体のクオリティの足を引っ張っている。

たとえば、キャッチボールの位置取りであるとか、

野球の試合で投球を追うカメラワークの拙さとか。


それは、最大のメタファーである「珈琲」と比べて、

あまりにも「それでいいの?」という感じである。

実際に、野球が好きな人に一言アドバイスを得れば、

それだけで解消する程度の小さな不自然なのだが、

ドラマ全体の質がとても高いので、余計に目立つのだ。


目立つと言えば、夕陽にかかわる設定について。

(おそらく抒情性の面では第7話がピークになるので、

また第8話について書けば謎を暴くことになるので、

今回は、第7話までの論評にとどめておきたい。)

第7話で、広沢の故郷をたずねた深瀬(藤原竜也)は、

下灘駅から電車に乗って東京への帰路につく。

そして、車窓から見える夕陽を写真に撮って、

恋人(としておく)の美穂子(戸田恵梨香)に送るのだ。


ところが、電車から見える夕日は車窓の右側で、

下灘から松山に帰るには、ありえない設定だった。

(下灘駅はJR予讃線で松山から7駅南へ行く。

松山空港は、松山駅から西にほぼ5キロの距離。)

西に沈む夕陽は、100パーセント左側に位置する。





もし、第7話のように右の窓に夕陽が来るためには、

(もちろん、朝日はここから登らない。四国の反対側だ。)

深瀬は、下灘駅からさらに南(南西)に向かう必要があり、

それは、松山とは逆に、宇和島へと向かう経路になってしまう。

(その方向へと向かって松山空港に着くためには、

四国を一周して、高知・徳島・香川を回る必要がある。

むろん、帰路も往路と同じ松山空港からという約束はない。

だから、可能性としては高知空港に向かうこともあり得るが、

しかし、一体、何のために、そんなことをする必要がある?)


ぼくは、この「進行方向が反対になっている」ことを、

最初は(というか、4回目に見るまで)ミスだと考えていた。

(はい。今度見れば5回目です。まさにリバース・苦笑)

だから、大阪出身(のはず)の越智美穂子が、

大阪で入院中の母親(いしのようこ)と会話している中で、

「肉まん」と言ったことも、(大阪人は、「肉まん」と言わず、

「豚まん」と言う。大阪人同士の会話では、ほぼ必ず。)

これも、上に見た夕陽の方角と同じような単純なミスか、

さもなくば東京発のドラマとしての視聴者への配慮かと、

その程度にしか当初は理解できなかった。不覚!


「本が読みたい」と言った母親のために(これも伏線だったが)、

実家に戻って本棚から山岡宗八の『徳川家康』

吉川英治の『宮本武蔵』の第1巻を、

取り出す、その本棚の上方には、なんともご丁寧に、

「豚まん」では大阪で最もメジャーな「551蓬莱」の、

袋が掛けてあるという小技まで繰り出されていたのに。


(さらに、タンスの上には、くいだおれ人形が置いてある。

大阪でも、くいだおれ人形のある家は、見たことがない。

さすがにこれは、制作スタッフが大阪を強調するために、

ちょっと遊びすぎたのではないかと思ってしまったのだ。

全体を起承転結で示すならば、第7話から第8話以後の、

「結」(まだ二転三転あるだろう)に向かう「転」のポイントは、

まさに、この「大阪」(さらに言えば、不完全な大阪弁)と、

「愛媛」とのかかわりだったのに・・・。





つまり、この記事の最初に書いた夕陽を撮るために、

(ドラマの中で、夕陽をめぐる抒情を描写するために)

ここで一旦、「リバース」のスタッフは「現実」を捨てて、

「叙景」を優先することを選択したのだと言ってよい。


そもそも「日本一海に近い駅」として有名な下灘を、

ドラマの舞台のひとつとして選んだ時に、

それは、クリアすべき課題として与えられたはず。

それでも製作者は「愛媛」を選んだ。何のために?

それは、もちろん、「Nのために」でしょう?





すでに、先の記事で書いたことではあるが、

「Nのために」のスタッフが再集結しただけある。

細部までのこだわりには並々ならぬものがあり、

それには傑作「カルテット」が刺激になっているはず。


「夜行観覧車」や「Nのために」が随所で引用されて、

(前者は見ていないので、あとから情報を得ました。)

湊かなえシリーズと呼ぶべき大きなトライアングルが、

形成され、そして閉じられようとしていることとは別に、

同じTBSの前期作として「カルテット」が意識されている。

(それはそうだろう。意識しないわけがない。

これはたまたまではあるが、「リバース」も、

「カルテット」と同様に、主要人物は「4人」だ。

そして、その4人の物語を起動するために、

「5人目の空白」に焦点が当てられ続ける。)


たしかに「カルテット」は傑作であった。けれども、

それはあくまでも表現の問題として、である。

「リバース」は、そこにはとどまっていない。

世界(空間造形)として、「カルテット」を超える。


10年前と現在を往来する(余儀なく往来させられる)

時間設定に(つまり「過去を振り返る」設定)に、

大きな優位性が含まれていることが前提にある。

すべての物語は、時間芸術であるからであり、

そこでは刻々に「過去」が再生産されてゆく。

すべての物語は、「心をのぞく」ものであり、

「心をのぞく」ことと「過去を振り返る」ことは、

しばしば(おおかたにおいて)同義である。


「リバース」が放送される金曜日が待ち遠しいと、

ドキドキしているわけではない。淡々と待っている。

そして、淡々と見る。その時間の中に埋没する。

(年を取るのも悪くない。目は徐々に悪くなるが、

鑑賞のための視力は、しだいに透き通ってくる。)

それでも、あと2話しかないことは、さびしく思う。


最終話までに(今週が第9話、そして来週が最終話)、

本気で、設定されたすべての謎を解こうと思っている。

(そして、最終回の次の金曜日が、6月23日だ。)


原作は読んでいない。そんなもったいないことはできない。

おそらく、すでにドラマは原作を超えている。


(以上、消してしまった文章の半分ほどを2回にわたって復元した。)


【追記】

吉川英治の『宮本武蔵』を、山岡宗八の『徳川家康』と書き、

1週間も、そのままにしていた。ああ、もう、恥ずかしい!

「みんな自分の見たいところしか見えないから」と、

八王子記念病院でカワちゃん(夏菜)も言っていた。

なぜ『徳川家康』なんて書いたんだろう?

自分の深層意識が知りたい。



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