われわれ人類が、はじめて再生の象徴としたもの、
それが太陽であったことは、間違いのないところだろう。
TBS系列のドラマ
「リバース」は、そのあたりの事情を、
じつにうまくドラマの中に織り込んでいて、秀逸だ。
とくに、5月26日(金)放送の第7回では、
夕陽に込められた人間のせつない情愛を描いて、
ドラマ史に残る、見事な描写となっていた。
(2016.9.4 那覇)
ところで、この「リバース」、ドラマのメタファーとして、
「野球」を、なかなかうまく取り入れて描いている。
(あくまでも、文脈として、ということであるが。
おそらく、湊かなえの原作が、そうなのだろう。)
ただし、ドラマの中での野球の扱い方(映し方)は、
残念だが全体のクオリティの足を引っ張っている。
たとえば、キャッチボールの位置取りであるとか、
野球の試合で投球を追うカメラワークの拙さとか。
それは、最大のメタファーである「珈琲」と比べて、
あまりにも「それでいいの?」という感じである。
実際に、野球が好きな人に一言アドバイスを得れば、
それだけで解消する程度の小さな不自然なのだが、
ドラマ全体の質がとても高いので、余計に目立つのだ。
目立つと言えば、夕陽にかかわる設定について。
(おそらく抒情性の面では第7話がピークになるので、
また第8話について書けば謎を暴くことになるので、
今回は、第7話までの論評にとどめておきたい。)
第7話で、広沢の故郷をたずねた深瀬(藤原竜也)は、
下灘駅から電車に乗って東京への帰路につく。
そして、車窓から見える夕陽を写真に撮って、
恋人(としておく)の美穂子(戸田恵梨香)に送るのだ。
ところが、電車から見える夕日は車窓の右側で、
下灘から松山に帰るには、ありえない設定だった。
(下灘駅はJR予讃線で松山から7駅南へ行く。
松山空港は、松山駅から西にほぼ5キロの距離。)
西に沈む夕陽は、100パーセント左側に位置する。
もし、第7話のように右の窓に夕陽が来るためには、
(もちろん、朝日はここから登らない。四国の反対側だ。)
深瀬は、下灘駅からさらに南(南西)に向かう必要があり、
それは、松山とは逆に、宇和島へと向かう経路になってしまう。
(その方向へと向かって松山空港に着くためには、
四国を一周して、高知・徳島・香川を回る必要がある。
むろん、帰路も往路と同じ松山空港からという約束はない。
だから、可能性としては高知空港に向かうこともあり得るが、
しかし、一体、何のために、そんなことをする必要がある?)
ぼくは、この「進行方向が反対になっている」ことを、
最初は(というか、4回目に見るまで)ミスだと考えていた。
(はい。今度見れば5回目です。まさにリバース・苦笑)
だから、大阪出身(のはず)の越智美穂子が、
大阪で入院中の母親(いしのようこ)と会話している中で、
「肉まん」と言ったことも、(大阪人は、「肉まん」と言わず、
「豚まん」と言う。大阪人同士の会話では、ほぼ必ず。)
これも、上に見た夕陽の方角と同じような単純なミスか、
さもなくば東京発のドラマとしての視聴者への配慮かと、
その程度にしか当初は理解できなかった。不覚!
「本が読みたい」と言った母親のために(これも伏線だったが)、
実家に戻って本棚から
山岡宗八の『徳川家康』
吉川英治の『宮本武蔵』の第1巻を、
取り出す、その本棚の上方には、なんともご丁寧に、
「豚まん」では大阪で最もメジャーな「
551蓬莱」の、
袋が掛けてあるという小技まで繰り出されていたのに。
(さらに、タンスの上には、くいだおれ人形が置いてある。
大阪でも、くいだおれ人形のある家は、見たことがない。
さすがにこれは、制作スタッフが大阪を強調するために、
ちょっと遊びすぎたのではないかと思ってしまったのだ。
全体を起承転結で示すならば、第7話から第8話以後の、
「結」(まだ二転三転あるだろう)に向かう「転」のポイントは、
まさに、この「大阪」(さらに言えば、不完全な大阪弁)と、
「愛媛」とのかかわりだったのに・・・。
つまり、この記事の最初に書いた夕陽を撮るために、
(ドラマの中で、夕陽をめぐる抒情を描写するために)
ここで一旦、「リバース」のスタッフは「現実」を捨てて、
「叙景」を優先することを選択したのだと言ってよい。
そもそも「日本一海に近い駅」として有名な下灘を、
ドラマの舞台のひとつとして選んだ時に、
それは、クリアすべき課題として与えられたはず。
それでも製作者は「愛媛」を選んだ。何のために?
それは、もちろん、「Nのために」でしょう?
すでに、先の記事で書いたことではあるが、
「Nのために」のスタッフが再集結しただけある。
細部までのこだわりには並々ならぬものがあり、
それには傑作「カルテット」が刺激になっているはず。
「夜行観覧車」や「Nのために」が随所で引用されて、
(前者は見ていないので、あとから情報を得ました。)
湊かなえシリーズと呼ぶべき大きなトライアングルが、
形成され、そして閉じられようとしていることとは別に、
同じTBSの前期作として「カルテット」が意識されている。
(それはそうだろう。意識しないわけがない。
これはたまたまではあるが、「リバース」も、
「カルテット」と同様に、主要人物は「4人」だ。
そして、その4人の物語を起動するために、
「5人目の空白」に焦点が当てられ続ける。)
たしかに「カルテット」は傑作であった。けれども、
それはあくまでも表現の問題として、である。
「リバース」は、そこにはとどまっていない。
世界(空間造形)として、「カルテット」を超える。
10年前と現在を往来する(余儀なく往来させられる)
時間設定に(つまり「過去を振り返る」設定)に、
大きな優位性が含まれていることが前提にある。
すべての物語は、時間芸術であるからであり、
そこでは刻々に「過去」が再生産されてゆく。
すべての物語は、「心をのぞく」ものであり、
「心をのぞく」ことと「過去を振り返る」ことは、
しばしば(おおかたにおいて)同義である。
「リバース」が放送される金曜日が待ち遠しいと、
ドキドキしているわけではない。淡々と待っている。
そして、淡々と見る。その時間の中に埋没する。
(年を取るのも悪くない。目は徐々に悪くなるが、
鑑賞のための視力は、しだいに透き通ってくる。)
それでも、あと2話しかないことは、さびしく思う。
最終話までに(今週が第9話、そして来週が最終話)、
本気で、設定されたすべての謎を解こうと思っている。
(そして、最終回の次の金曜日が、6月23日だ。)
原作は読んでいない。そんなもったいないことはできない。
おそらく、すでにドラマは原作を超えている。
(以上、
消してしまった文章の半分ほどを2回にわたって復元した。)
【追記】
吉川英治の『宮本武蔵』を、山岡宗八の『徳川家康』と書き、
1週間も、そのままにしていた。ああ、もう、恥ずかしい!
「みんな自分の見たいところしか見えないから」と、
八王子記念病院でカワちゃん(夏菜)も言っていた。
なぜ『徳川家康』なんて書いたんだろう?
自分の深層意識が知りたい。