黒い五輪の置き土産

び ん

2021年08月09日 00:00

東京五輪が終わったそうだ。


いっさいテレビ中継を見なかったので、

五輪のことは新聞で知るのみだったが、

今回ばかりは、すべてが茶番に思えた。


テロがなかったことは本当によかった。

ただし五輪自体がテロになったことは、

す氏やバ氏がシラを切り通そうとしても、

どれだけメダルの数が増えようとも、

だれにも否定できることではない。


たまたま運動神経に恵まれた人たちが、

集まって(集められて)運動している。

以前からそんな五輪評があることは知っていた。


ただ、そんな評価は遠いところにあった。

元来が感激症なので、つい熱くなることも多く、

半分運動部系なのでスポーツは嫌いではない。


しかし、今回は黒い表紙のシナリオが、

自分とは無縁の場所で進行していると、

ただ、それだけのことにしか思えなかった。


たまたま運動神経に恵まれた人たちが、

他の人たちを犠牲にして、運動している。

それを利益第一のメディアが追いかける。


(ならば、その利益誘導のワープの中に、

引き込まれる前に踏みとどまろう、

ただ単純に、そう思った。)


当事者の努力を認めないわけではない。

そこには血のにじむ努力があっただろう。

勝者にしても、敗者にしても、関係者も。


若い人たち(そうでない人もいただろうか)が、

努力をして自分の可能性を広げていくことは、

ほんとうに大事なことだといつも思っているし、

自分の仕事の半分は、それを手伝うことにある。


しかし、努力や忍耐を続けているのは、

その人たちだけではない、ということ。

そのことだけは、忘れないでおきたい。


その人たちが「今回は、やめる」という

ほんとうの勇気を示せなかったために、

多くの命が失われ、多くの悲劇が生まれた。


それらを多くのメディアは無視して走ったが、

今さらどのツラさげて、戻ってこれるだろうか。

そして、それは今後も決して止まることはない。


さまざまな感動があったことは確かなことだろう。

人が得る感動までを否定しようとは思わない。

しかし、それはあくまでも他人の感動だった。


彼らが示せたのは、あくまでも「ニ番目の勇気」。

誰から何と言われようとも、それは間違いない。

一番の勇気は、「やめよう」と言うことだった。



(『日刊スポーツ』(21年7月23日撮影)より)


7月22日、テレビが映らなくなった。

家族はみな、ぼくのせいだと疑い、

(もちろん、ぼくは何もしていない)

「これで助かった」と思ったのだが、

(いちいち「見ない」を選択せずに済む)

翌日から、テレビはなんとなく復活した。


ただ、画面の3分の1くらいは、

奇妙な模様が入ったままだ。

なので、家族は個人の画面を見、

ぼくはスマホもケータイもないので、

あいかわらずPCで仕事を続けている。


他人が名誉やカネや将来性を得るのを、

見ているのがそんなに楽しいのか?

じつは、そんな皮肉なことまで考えた。

そう考えると、テレビ番組のほぼすべてが、

一気に、決定的に、色あせて見えてきた。


いくらそんな皮肉なことを考えていても、

他人が獲得した名誉の象徴をいきなり噛む、

それがどれほど下品なふるまいかは理解できるし、

感染拡大と五輪は無関係であると強弁する連中が

本当にそう信じているのであれば狂気の沙汰である。


それは、狂気とともに電車の中で凶器を振り回す、

危険で不条理で予測不能な犯罪者と変わりはない。

もし自分がやっていることを理解してのことならば、

もはや何も斟酌できることはない、真の犯罪者だ。


おかげで、感動や共感を押しつけられずに済んだ。

残された時間がそれほど多いわけではないので、

これがテレビから離る機会になれば、ありがたい。


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