知られざる1970大阪万博

び ん

2021年12月12日 00:15

12月になった。

というか、12月も3分の1が過ぎた。


今年は、ほんとうに記事を書かなかった。

とくに、3月以降は、ほとんど記事も進まず、

(9か月で8記事。ひと月に1記事もない。)

それでも、なんとか続けて、ここまできた。

続いている、と言えればの話なのだが。


おまけに、見返してみると、沖縄の話は、

半分にも達していないではないか・・・。

(すぐに見返せることだけは便利だな、

と、かなり自虐的に思ったりもする。)


ずっと書かないでいると、逆にこれまで、

よくぞこれだけ書いてきたなという気になる。

沖縄に行けないでいることと、その気持ちが、

どのように関わっているのかどうかはわからない。


で、今回も、沖縄とは(一見)関係のないことを書く。





今年の紅葉は、きれいではなかったと思う。

季節が行ったり来たりして、樹木も迷ったようだ。

とはいえ、それほど紅葉に気を配っていたわけでもない。

データを見返すまでもなく、紅葉を撮ったのは1回だけ。

それも、上の写真を撮った日、1日きりである。


紅葉を見るためにどこかに行ったのではなく、

関西文化の日に民博(民族学博物館)を訪れて、

万博記念公園を歩くあいだに撮ったのだった。


今年は、ほんとうに写真を撮っていない。

記事を書かなくなったので自然を撮らなくなったのか、

自然を撮らなくなったので記事も書かなかったのか、

それもまた、どちらでも言えるように思うのだけれど。


たしかなことは、空や樹木などをほとんど見なくなった。

外に出る機会が少なくなったからでは、たぶんない。

昨年に比べるならば、おそらく10倍以上は外出した。


自然を見ている時間がなくなって撮らなくなったとも、

言えないような気がする。建物もほとんど撮っていない。





それでも、太陽の塔は、何枚か撮った。好きなので。

とはいえ、この汚れ方は、どうにかならないものか。

赤くしたり青くしたり、政治利用で振り回す前に、

少しはきれいにしてあげてくれないかと思う。


この日、万博記念公園には博物館が開く頃に着いた。

太陽の塔は南の方角に向かって立っているので、

太陽は、左手のほうから昇ってきて、右側に沈む。

この時は、左肩に太陽を背負ったいなせな後ろ姿だった。


それでも、もう少しきれいにできないかと再度記す。

このまま黒く汚れて行ったのであれば、

背中の「黒い太陽」が見えなくなってしまうではないか。


維新がどれだけ大阪文化を踏みにじってきたか、

その象徴的なモニュメントにしたいというのなら、

このまま真っ黒にするのもアリかとは思うのだが。





12月11日(土)夜10:40から、万博の番組を見た。

https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/program/special/431121.html

「知られざる1970大阪万博」


「知られざる」と銘打っていたが、ほぼ全部知っていた。

知らなかったことは3つ。

京都精華大学名誉教授の上田篤さんが、

「初めて話す」と言って話した、丹下健三と西山卯三のこと、

開会式の前日に工事の犠牲者の慰霊祭が開かれていたこと、

原子爆弾の展示が直前に差し替えになっていたということ。

それでも十分に価値のある情報であり番組だったと思う。


赤坂憲雄さんを呼ぶなら、ぼくを呼ぶべきだろうと思ったが、

近視眼的なコメントに終始する「博覧会研究の第一人者」、

吉見俊哉さんのぐだぐだで、どうでもいい考察と比べて、

やはりこの人の文明史観はすごいと思わせられた。


あとは、NHKで「発見」されたという50時間に及ぶフィルムが、

有効に利用されることと、ナビゲーターとして登場した、

佐野史郎さんのご回復を祈るのみである。



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