そろそろ11月も終盤を迎えている。
先月も今月もまだ1記事もUPしていない。
それが「ふつう」になってきてしまっているが、
「記事一覧」を開いてみると、書きかけたままで、
結局、下書きのままの記事が、いくつか残っている。
たとえば、10月は3記事、11月も3記事。
あまり長く更新していないのも気が引けて・・・
そんなわけで、今月書いた3つの下書きの中から、
ひさしぶりの「旅」の話を、ひとつUPしておきたい。
京都に行った。
ひさびさの京都だ。
大阪から、かなり移動した感じがしたが、
その間を通学・通勤している人も多くいて、
「かなり」などと言えば笑われてしまうだろう。
夜は、京都料理のごちそうを食べた。
間違いなく、今年一番のぜいたくである。
写真のあとからも、いくつも皿がやってきた。
まあ、今年はまだ1か月と少しあるが、
ぜいたくな料理を食べる予定は全くない。
というか、外食をする予定自体がない。
一緒に食べたのが、与那原出身の人。
ちなみに奥さんは南風原の出身である。
与那原と聞くと、ぼくはアガリ浜を思い浮かべるので、
「与那原から南風原なら30分ですね」と言ったら、
「いやいや、15分ですよ」と言われた。
町の中心部同士なら、たしかにそのくらいだ。
くやしいので「道もよくなりましたからね」と言った。
地元出身の人と張り合ってどうする、という気もしたが。
京都なのに、沖縄の話で盛り上がった。
ごちそうを食べるために行ったわけではなく、
翌日も朝から仕事なので、そのまま京都に泊まった。
予約してもらっていたホテルは、京都タワーの真下だった。
というか、ホテルの入ったビルに京都タワーが立っている。
ちょうど向かいには駅ビルがあって、京都タワーが映っている。
見る位置を少し変えるたびに映る姿が変わって、おもしろかった。
朝食はついていなかったので、夜のうちにコンビニで買った。
『京都新聞』が1部だけ残っていて、ラッキーと思いつつ買った。
前日亡くなった寂聴さんの、ほとんど特集号といった内容だった。
寂聴さんの京都とのかかわりは、ほんの少しだけ知っていた。
世間の目を逃れて京都までやってきたときを回想した言葉、
「かつて捨てた男と、まためぐりあったような気がした」は、
身につまされるところがあって、以前から覚えていた。
(うろ覚えなので、正確かどうかは、まったく自信がない。)
夜まで『京都新聞』が残っていてくれたのは幸運だった。
ホテルで読んで、はからずも寂聴さんをしのぶ旅になった。
寂聴さんが生まれたのは、1922年(大正11年)5月15日。
つまり、1972年5月15日の、ぴったり半世紀前なのだ。
そんなことも、今回、京都に行って初めて知ったのだった。
徳島に生まれた彼女は、東京・北京・東京・徳島・京都と移り住む。
51歳の出家後は、東北と京都に拠点を置いて暮らした。
そして、京都市内の病院で亡くなったのである。
コンビニには、「かにぱん」があって、つい買ってしまった。
なぜ寂聴さんから、かにぱんの話になるのか、ということだが、
かにぱんといえば三立製菓(サンリツ)であり、今年100周年。
100周年といえば、京都バスの100周年が地元では有名。
とまあ、なんとなくこじつけてみたが、こじついてないかも。
沖縄では、ぐしけんパンのなかよしパン(通称かえるパン)であるが、
内地では、サンリツのかにぱんなのである。(と、今、勝手に決めた。)
三立製菓の本社が浜松なので、静岡県内で見かけることは多かった。
大阪では、あまり見ない。なぜ京都のコンビニにあったのかは、不明。
透明の包装紙を見ると、かにの手足をちぎって、
「ぐー」「ちょき」「ぱー」にする手順が書かれていた。
でも、この矢印の順番は、ちょっとおかしくないか?
おまけに、これでじゃんけんをしようと思う人がいるのか?
以前から思っていたが、とにかく京都は謎が多い。多すぎる。
今回京都では、タクシーに4回乗って、乗っているあいだじゅう、
運転手さんから京都の話を聞いた。4人とも話好きで助かった。
タクシー代の半分は、情報収集代なのだと勝手に思っている。
かにぱんのことは、京都で尋ねることではないので聞かなかった。
今度実家に帰る時、浜松で新幹線を乗り換える際に途中下車して、
聞きに行こうか。三立製菓の本社は浜松駅から歩いて行けるので。
・・・と、とりあえず京都から浜松に話題が移った。
このあとかえるパンの話に移りたいのだが、画像が見つからない。
検索をかけても出てこないし、タグ置き場にはタグを置きすぎて、
肝心のかえるパンもなかよしパンもぐしけんパンも見つからない。
かえるパンの写真が出てきたら、次の記事を書こうかと思う。
かにぱんは、次の日の朝に食べた。かにぱんの味だった。