「鹿男の木」は、なぜ裸木なのか?(「鹿男あをによし」の時空)
神無月(10月)の物語なのに、なぜ樹木が裸なのか?
変ではありませんか?
公式サイトによれば、撮影は12月にクランクインし、
そして、この3月にクランクアップをむかえた。
とりわけ、第10話末尾のモブ(群集)シーンは、
放送日(20日)直前の15日にロケがあった。
つまり、この期間はすっぽりと「冬」に収まります。
とりわけ、撮影スタート時は、完全に冬であった。
であれば、樹木はまだ(芽吹きの気配はあるとしても)
裸木であって、何の不思議もない。
しかし、物語内の現在時は、あくまでも10月なのです。
このことをどう考えればよいのか、
あるいは、考えなくてもよいのか。
しばし考えてきました(結局そうなりますね・笑)
で、ぼくはこのことには意味があったと思います。
現在は、そのように結論づけている。
それは、この物語が、「時空間を超えた」物語だからです。
・・・これだけでは説明になりませんね。
それを、これから説明していこうと思うのです。
ただ、いまはちょっとその準備が整いません。
であれば、黙っているのが順当なのでしょうが、
ただ、このことだけは言っておきたいのです。
つまり、「鹿男あをによし」の制作者たちが、
秋の物語を冬のロケで撮影するからといって、
たとえばCGで裸木に秋の装いをする・・・
そのような挙、あるいは選択に出なかったことが、
この物語(ドラマ)にとってほんとうによかった、
そういういうことです。
もし、CGならずとも、セットの樹木を用意したり、
あるいは裸木を模造品で飾り立てたとしたならば、
「鹿男」は大幅にそのストーリーの奥行きを欠いた、
言葉通り陳腐なドラマに堕していたのではないか、
ぼくは、そのように考えるのです。
それはなにも「鹿男の木」ひとつに限ったことではなく、
「鹿男の木」の扱いに代表されるドラマの「構え」、
つまり、ストーリーであるとか演出だとか、
あるいはBGMやロケ現場の選択など、
幅広い部分にかかわって言えることだとは思います。
ただ、やはりその象徴として「鹿男の木」があった。
考えてみてください。
10月に、この木が本来どのような状態なのか。
おそらく、春に芽吹き、夏を越えた葉たちが、
いくぶん疲れつつ、まだ青々と茂っているはずです。
そして迫り来る秋の気配の中に、あるものは色づき始め、
またあるものは、早々と冬じたくを始める。
そろそろ実だって大きくなっている。
そんな頃ではないでしょうか。
10月なのに、葉のない木。
この木を、その姿のままで用いたとき。
あるいは用いようと制作側が決めたとき、
ぼくは、ドラマ「鹿男」の飛翔が約束されたと思います。
そのことを、これからいくつかの方法で、
つまり、いくつかの側面から考えてみたいと思うのです。
・・・予告編のような文章になってしまいました。
いえ、まるきりの予告編ですね。
しかし、ぼくの「鹿男あをによし論」は、
あるいは、ここから始まるのではないか・・・
そんな気がしています。
(撮影:chief 「鹿男の木」 ウルトラマン変身ポーズを決めた
つもりになっているおじさんは、とりあえず無視してください。)
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