地震を語る物語のこと、歴史を語る物語のこと (鹿男第9話)

び ん

2008年03月15日 10:00

3月13日、所用の合間を縫って、急遽奈良へと向かいました。

3月13日。「鹿男あをによし」(10回連続)第9話放送の日です。


思えば1月17日、地震を扱うというドラマがこの日にスタートするのをいぶかしく思いつつ、

夜9時過ぎ(この日のみ1時間前倒しの時間設定でした)に、チャンネルを合わせたのでした。

(5分ほど遅れてしまったことは、すでに記したとおりです。)


1月17日・・・そう、阪神・淡路大震災の日です。

そして、この日は、ぼくの誕生日でもありまして。


あまりドラマを見ない(そもそもあまりテレビを見ない)ぼくが、

このドラマのことを知ったのは、その朝の新聞の紹介によって。


大ナマズが起こす地震、そして日本の崩壊を、鹿に選ばれたひとりの男が救う・・・

そんな紹介内容だったと思います。


1991年1月17日の湾岸戦争開始から、1994年のカリフォルニア大地震、

そして1995年の阪神大震災と、この日は、それこそ「誕生日どころではない」日です。

この日を迎えると、まず第一に考えるのは、「今年の、この日は何事もなく過ぎて欲しい」ということ。

ま、そのあとに、「あー、またひとつ歳をとっちまったなぁ(苦笑)」と、思うのは思うのですが。


というわけで、「なんでこの日に、地震のドラマをはじめるわけ?」というのが最初の印象でした。

その印象がなければ、ぼくは「鹿男あをによし」にチャンネルをあわせることはなかったかもしれません。

そして、ゆくゆくこんなふうに入れ込むことも(笑)


テレビをつけたとき、飛び込んできたのは、某大学研究室が地震で揺れている場面(これも書きました)。

実験器具が床に落ち、こなごなに砕け散っていました。


あとから知ったことなのですが、このドラマは、本来その前の週にはじまっていてもよかった。

というより、通常のクールから考えれば、1週間前から始まるのがセオリーだったようなのです。


しかし、それを(おそらく)あえて1週間遅らせて、1.17からスタートさせた。

ぼくは、そこにはやはり意味があると思っています。

このドラマをつくる人たちが、『地震を鎮める』という物語を語るこのドラマの中に、いわば祈りを込めた、という。


毎回のように挿入される伊豆地方を中心とする地震のニュース、富士山噴火への大きな危惧、

そして、物語の主要舞台である奈良にも、しだいに大きな規模となって地震は起こり続ける。

・・・考えてみれば、それは「テレビの中のこと」であるとともに、わたしたちの現実ですよね。

少しばかりデフォルメ(強調)して描かれては、いますけれども。


ともあれ、1月17日に始まった「鹿男あをによし」が、来週木曜日(3月20日)に最終回を迎えます。

ドラマの中で何度も地震のことを口に出し、一貫して地震をこわがっている人物が、一人だけ、いますよね。

その人物の「地震がこわいから」という動機から発する行動原理が、主人公の行動を大きく前進させ続けます。

その意味においても、このドラマを「地震の物語」「地震をめぐる冒険」と呼んで、少なくとも不正解ではないはずです。


もちろん、「役目」として、最終回の目玉となるはずの「鎮めの儀式」に大きく関与する人物は、いるでしょう。

しかし、それとは別に、「鹿」ですら「まさか」と思う意外さをもって大きく関わってくるのが、この人なのでは?

第9話が終わった現在の時点で、ぼくはそんなふうに思っています。


(視聴率に関しては、ものすごく残念ながら、やはり10%からは、あまり伸びないかもしれません。

第9話のリチャード(児玉清)は熱演・怪演ではありましたが、やはり重すぎた。そして駄々っ子すぎた。

熱演すぎて、ドラマ全体のトーンを、かなり変えてしまいましたから。

また、戸田恵子(!)を声優に迎えたゼイタクな鼠のCGも、NHK人形劇のようで、ちょっと笑えました。

むしろ、鼠と狐は可視化しないまま、「雰囲気」のみにとどめておいたほうがよかったのではない・・・かな?

また、どうしても知りたい謎の所在というのが、むしろ第8話の時点より拡散し、あいまいになってしまいました。

これもすでに書いたことなのですが、最終話に残った「謎」の中で、あいかわらず取りざたされているのは、重さんの正体、ですよね。

それも、第9話で「たぬき」とか「うどん」とか口走ったことで、いろいろな憶測を呼んでいる^^

もちろん、このことにはぼくも大いに興味はあるのですが。

そして、小川先生の恋のゆくえ。

「最終回予告」は、堀田イトとのキス(?)、藤原先生との抱擁、と、むしろ興味を恋バナに引きつけるようなつくり。

正直、これには、ちょっと引きました(第9話だけ最初に見たのならば、第10話は見なかったかもしれない・・・あー、でも、見たかな^^)。

そうじゃなくって、やっぱり最終回の主眼は、「鎮めの儀式」でしょ?

もちろん、それは「謎」のまま、「予告」には映せないのだろうけれど。


第9話、すごくおもしろかったです。でも、おもしろすぎて、するする行き過ぎた。贅沢ですけど。

やはり、ここで解くべき小さな謎は解き、最終話にまで引っぱるべきではなかったと思います。

ともあれ、そんなこんなで、最終回の視聴率、高くて10%そこそこだだろうと予想修正しておきます。

これが裏切られてほしいと思っていますけれど!)



ただし、1月17日をスタートの日に選んだこのドラマは、それだけの「役目」を果たしつつあるのではないでしょうか。

正面切って地震災害への備えを説くわけでも、被害の悲惨さを訴えるわけでも決してない。

しかし、継続する地震報道と、しだいに大掛かりになる地震描写(そのおかげで三角縁神獣鏡は発見されました)、

それらは、きっとこのドラマが放送される先々の少なからぬ家庭に、地震防備への心構えをも送り続けている。

そんなふうに思います。




一昨日、奈良の東大寺二月堂では、お水取りが行なわれていました。

14日間続く行事の、最終日から2日目に当たります。

また、後夜(ごや)と呼ばれる最後の3日間の中日でもあります。


「鹿男あをによし」では、卑弥呼以来1800年も続く「儀式」が描かれますが、

このお水取り(修二会=しゅにえ)も、実際に今年1257回目を迎えました。

それも、奈良時代から1度も途切れることなく続いてきたといいます。

(修二会は東大寺だけのものではなく、法隆寺・長谷寺・薬師寺・新薬師寺などにもあります。

ただ、「奈良に春を告げる」という東大寺二月堂のものが、あまりにも有名になったのですね。)


朱雀門の前で、小川先生から奪った三角縁神獣鏡を手に、リチャードは30年にわたる自らの考古学(歴史)研究を訴えます。

だから、三角縁神獣鏡(目)は、研究対象として使うことが最適なのだ、と。

そして、せつなく叫びます。

「これは・・・歴史そのものなんだ!」

しかし、小川先生は、そんなリチャードに静かに、しかし力強く説きます。

三角縁神獣鏡(目)は、日本を救うために使うことが必要なのだ、と。

「捨てるんじゃありません。生かすんです」

「ガラスケースの中に飾るより、何千倍、何万倍も意味のあるやり方で生かすんです!」



第9話でドラマの作り手たちが送りたかった最大のメッセージは、そのあたりだと思います。

(あいかわらず原作の小説は読んでないので、それが作者のメッセージかどうかはわからないのですが。)

歴史の遺産は、ガラスケースの中に飾るより、今生きている人々のために使われるべきなのだ。

これは、ブルーハーツの名曲「トレイントレイン」(歌詞の引用は許諾が必要なのでしません)にもつながる、

「歴史遺産」に対する、根本的な問いかけですね。


阪神大震災のときにも話題になったことがあります。

壊滅的な災害の中で、いったい歴史遺産にどれほどの価値を置くべきか。

言い換えます。

極限的な状況の中で、歴史遺産と人命と、いったいどちらが大切なのか。


「鹿男あをによし」の「謎」は、第10話を残して、まだずいぶん残っています。

あるいは、「謎」ではなく、視聴者たち(ぼくもですが)が、勝手に「謎」だと思っていたこともあるでしょう。

(ドラマの作り手は、そのようなミスリードも、いくつかドラマに仕込んでいると考えられます。)

もちろん、「謎」の多くは最終話である3月20日放送の第10話で解き明かされるに違いありません。

ぼくも、それを心から楽しみにしているユーザーのひとりです。


ただ、それはそれとして、今回の記事で述べてきたような「地震を鎮める」というひとつの「祈り」。

それが、ドラマ(ストーリー)として、どのように完結するのか(しないのか)、

そこのところを、じっくり見せてもらおうと思っています。

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