3月13日、所用の合間を縫って、急遽奈良へと向かいました。
3月13日。「鹿男あをによし」(10回連続)第9話放送の日です。
思えば1月17日、地震を扱うというドラマがこの日にスタートするのをいぶかしく思いつつ、
夜9時過ぎ(この日のみ1時間前倒しの時間設定でした)に、チャンネルを合わせたのでした。
(5分ほど遅れてしまったことは、
すでに記したとおりです。)
1月17日・・・そう、阪神・淡路大震災の日です。
そして、この日は、ぼくの誕生日でもありまして。
あまりドラマを見ない(そもそもあまりテレビを見ない)ぼくが、
このドラマのことを知ったのは、その朝の新聞の紹介によって。
大ナマズが起こす地震、そして日本の崩壊を、鹿に選ばれたひとりの男が救う・・・
そんな紹介内容だったと思います。
1991年1月17日の
湾岸戦争開始から、1994年のカリフォルニア大地震、
そして1995年の阪神大震災と、この日は、それこそ「誕生日どころではない」日です。
この日を迎えると、まず第一に考えるのは、「今年の、この日は何事もなく過ぎて欲しい」ということ。
ま、そのあとに、「あー、またひとつ歳をとっちまったなぁ(苦笑)」と、思うのは思うのですが。
というわけで、「なんでこの日に、地震のドラマをはじめるわけ?」というのが最初の印象でした。
その印象がなければ、ぼくは「鹿男あをによし」にチャンネルをあわせることはなかったかもしれません。
そして、ゆくゆくこんなふうに入れ込むことも(笑)
テレビをつけたとき、飛び込んできたのは、某大学研究室が地震で揺れている場面(これも書きました)。
実験器具が床に落ち、こなごなに砕け散っていました。
あとから知ったことなのですが、このドラマは、本来その前の週にはじまっていてもよかった。
というより、通常のクールから考えれば、1週間前から始まるのがセオリーだったようなのです。
しかし、それを(おそらく)あえて1週間遅らせて、
1.17からスタートさせた。
ぼくは、そこにはやはり
意味があると思っています。
このドラマをつくる人たちが、『地震を鎮める』という物語を語るこのドラマの中に、いわば祈りを込めた、という。
毎回のように挿入される伊豆地方を中心とする地震のニュース、富士山噴火への大きな危惧、
そして、物語の主要舞台である奈良にも、しだいに大きな規模となって地震は起こり続ける。
・・・考えてみれば、それは「テレビの中のこと」であるとともに、わたしたちの
現実ですよね。
少しばかりデフォルメ(強調)して描かれては、いますけれども。
ともあれ、1月17日に始まった「鹿男あをによし」が、来週木曜日(3月20日)に最終回を迎えます。
ドラマの中で何度も地震のことを口に出し、一貫して地震をこわがっている人物が、一人だけ、いますよね。
その人物の「地震がこわいから」という動機から発する行動原理が、主人公の行動を大きく前進させ続けます。
その意味においても、このドラマを「地震の物語」「地震をめぐる冒険」と呼んで、少なくとも不正解ではないはずです。
もちろん、「役目」として、最終回の目玉となるはずの「鎮めの儀式」に大きく関与する人物は、いるでしょう。
しかし、それとは別に、「鹿」ですら「まさか」と思う意外さをもって大きく関わってくるのが、この人なのでは?
第9話が終わった現在の時点で、ぼくはそんなふうに思っています。
(視聴率に関しては、ものすごく残念ながら、やはり10%からは、あまり伸びないかもしれません。
第9話のリチャード(児玉清)は熱演・怪演ではありましたが、やはり重すぎた。そして駄々っ子すぎた。
熱演すぎて、ドラマ全体のトーンを、かなり変えてしまいましたから。
また、戸田恵子(!)を声優に迎えたゼイタクな鼠のCGも、NHK人形劇のようで、ちょっと笑えました。
むしろ、鼠と狐は可視化しないまま、「雰囲気」のみにとどめておいたほうがよかったのではない・・・かな?
また、どうしても知りたい謎の所在というのが、むしろ第8話の時点より拡散し、あいまいになってしまいました。
これも
すでに書いたことなのですが、最終話に残った「謎」の中で、あいかわらず取りざたされているのは、重さんの正体、ですよね。
それも、第9話で「たぬき」とか「うどん」とか口走ったことで、いろいろな憶測を呼んでいる^^
もちろん、このことにはぼくも大いに興味はあるのですが。
そして、小川先生の恋のゆくえ。
「最終回予告」は、堀田イトとのキス(?)、藤原先生との抱擁、と、むしろ興味を恋バナに引きつけるようなつくり。
正直、これには、ちょっと引きました(第9話だけ最初に見たのならば、第10話は見なかったかもしれない・・・あー、でも、見たかな^^)。
そうじゃなくって、やっぱり最終回の主眼は、「鎮めの儀式」でしょ?
もちろん、それは「謎」のまま、「予告」には映せないのだろうけれど。
第9話、すごくおもしろかったです。でも、おもしろすぎて、するする行き過ぎた。贅沢ですけど。
やはり、ここで解くべき小さな謎は解き、最終話にまで引っぱるべきではなかったと思います。
ともあれ、そんなこんなで、最終回の視聴率、高くて10%そこそこだだろうと予想修正しておきます。
これが裏切られてほしいと思っていますけれど!)
ただし、1月17日をスタートの日に選んだこのドラマは、それだけの「役目」を果たしつつあるのではないでしょうか。
正面切って地震災害への備えを説くわけでも、被害の悲惨さを訴えるわけでも決してない。
しかし、継続する地震報道と、しだいに大掛かりになる地震描写(そのおかげで三角縁神獣鏡は発見されました)、
それらは、きっとこのドラマが放送される先々の少なからぬ家庭に、地震防備への心構えをも送り続けている。
そんなふうに思います。
一昨日、奈良の東大寺二月堂では、お水取りが行なわれていました。
14日間続く行事の、最終日から2日目に当たります。
また、
後夜(ごや)と呼ばれる最後の3日間の中日でもあります。
「鹿男あをによし」では、卑弥呼以来1800年も続く「儀式」が描かれますが、
このお水取り(修二会=しゅにえ)も、実際に今年1257回目を迎えました。
それも、奈良時代から1度も途切れることなく続いてきたといいます。
(修二会は東大寺だけのものではなく、法隆寺・長谷寺・薬師寺・新薬師寺などにもあります。
ただ、「奈良に春を告げる」という東大寺二月堂のものが、あまりにも有名になったのですね。)
朱雀門の前で、小川先生から奪った三角縁神獣鏡を手に、リチャードは30年にわたる自らの考古学(歴史)研究を訴えます。
だから、三角縁神獣鏡(目)は、研究対象として使うことが最適なのだ、と。
そして、せつなく叫びます。
「これは・・・歴史そのものなんだ!」
しかし、小川先生は、そんなリチャードに静かに、しかし力強く説きます。
三角縁神獣鏡(目)は、日本を救うために使うことが必要なのだ、と。
「捨てるんじゃありません。生かすんです」
「ガラスケースの中に飾るより、何千倍、何万倍も意味のあるやり方で生かすんです!」
第9話でドラマの作り手たちが送りたかった最大のメッセージは、そのあたりだと思います。
(あいかわらず原作の小説は読んでないので、それが作者のメッセージかどうかはわからないのですが。)
歴史の遺産は、ガラスケースの中に飾るより、今生きている人々のために使われるべきなのだ。
これは、ブルーハーツの名曲「トレイントレイン」(歌詞の引用は許諾が必要なのでしません)にもつながる、
「歴史遺産」に対する、根本的な問いかけですね。
阪神大震災のときにも話題になったことがあります。
壊滅的な災害の中で、いったい歴史遺産にどれほどの価値を置くべきか。
言い換えます。
極限的な状況の中で、歴史遺産と人命と、いったいどちらが大切なのか。
「鹿男あをによし」の「謎」は、第10話を残して、まだずいぶん残っています。
あるいは、「謎」ではなく、視聴者たち(ぼくもですが)が、勝手に「謎」だと思っていたこともあるでしょう。
(ドラマの作り手は、そのようなミスリードも、いくつかドラマに仕込んでいると考えられます。)
もちろん、「謎」の多くは最終話である3月20日放送の第10話で解き明かされるに違いありません。
ぼくも、それを心から楽しみにしているユーザーのひとりです。
ただ、それはそれとして、今回の記事で述べてきたような「地震を鎮める」というひとつの「祈り」。
それが、ドラマ(ストーリー)として、どのように完結するのか(しないのか)、
そこのところを、じっくり見せてもらおうと思っています。