有名なシーサーではありますけれども・・・
現在のように壺屋焼のシーサーが商品化される以前につくられた、壺屋系シーサーの代表作であることは間違いないでしょう。
阿形(あぎょう)
そして、吽形(うんぎょう)
社殿の鮮やかな朱塗りは、沖縄の青い空によく映えます。
今回、屋外での調査を終えて車に戻ると雨が降り出し、また、ホテルに帰ると大雨になる、などということが続いて、ほんとうにありがたかったです。と同時に、大雨の被害を越えてこられた地元のかたに、申し訳ないという気もありました。・・・それは、よけいな気遣いなのでしょうね。
社殿の破風(はふ=屋根のつくり)の様子に変化があって、その由来をうかがいたいと思いましたけれども、これはまだまだ自分で調べてから、ですね。
1633、1803、そして今次の大戦と、くり返し破壊されてきた歴史と、それは関わりあうのでしょうか。
ヤマトから漂着した袋中(たいちゅう)上人の『琉球神道記』に「当国第一の神社」と書かれたのが江戸時代が始まって3年目に当たる1605年(慶長10年)。
今年は、それからちょうど400年目に当たります。
また、それから18年後(1623年)に完成した『おもろさうし』の中に、波之上宮造営の様子がうたわれています。
アガリ(東)の海に向かうのが沖縄の聖地の通例なのにもかかわらず、なぜ波之上がイリ(西)の端に建てられたのか・・・これもまた大きな課題といえるのでしょう。ただし本殿は、たしかにアガリ方面を向いています。
縁起(御鎮座伝説)にいう、南風原村崎山の里主が海浜で「ものを言う石」を拾い、その霊石を守るために波上山(花城)に社を建てて祀ったという伝承を信じるならば、なお。
つまり、もともと霊石がこの場にあったのならばともあれ、南風原からならば東海岸に向かっても少しもおかしくはありませんから(むしろ、そのほうが自然かもしれません)。
もちろん、波之上宮は熊野権現(和歌山)の系統なので、熊野を見晴るかす土地が選ばれたという説明になるのでしょうけれど・・・それは、後世、波之上宮が熊野系神社に組み込まれてからの(こじつけとは言いませんが)、あくまでも「説明」でしょう。
「ものを言う石」がどうなったのか・・・文献上からは確認できません。
しかし、波之上もまた霊石信仰、つまり「
びじゅる」から発していることは間違いないのだろうと、ぼくは考えています。
気持ちよい風に吹かれながら、ぼくらは旅の安全を祈りました。
拝殿前のがじゅまるの髭根に結ばれたおみくじが、内地の神社とは異なった風景をつくりだしていました。