2016年度のノーベル文学賞がボブ・ディランに決まった。
ボブ・ティランの名前が俄然脚光を浴びたのは2012年。
この年、ブックメーカー(賭け屋※)のオッズが8倍となり、
(※賭け屋もさまざまあるが、大手のラドブロークスによる)
まさに不動の本命に駆け上がった村上春樹に次いで、
11倍で2位につけたのが、ボブ・ディランであった。
「え?」とかなりおどろいたので、覚えている。
次に来たのは「おお!(すげえ)」という感情だった。
結局、この年の受賞者はオッズ3位の莫言に決まったが、
「おお!(すげえ)」は、4年遅れて今年実現したのだった。
それから毎年1位2位を続ける村上春樹の陰に隠れて、
日本で取りざたされることはあまりなかったのだが、
ちょうど現在の錦織圭のように4位とか5位とかに、
ボブ・ディランはランクインを続けてきたのだった。
(実際にどうだったかは50年後に明らかになる。)
当初の受賞予想作は1966年に書かれた小説で、
その意味では、まさに今年が50周年なのだが、
結局、作詞・作曲の全体が授賞対象となった。
今年も1位をキープすると思われた村上春樹は、
直前にケニアのジオンゴさんに1位を譲った。
(ごめんなさい。読んだことがないのです・・・)
むしろ、1位を譲り渡したことで、
意外とこれは今年いくのかな、と一瞬思ったので、
ここ数年すこしも目立たなかったボブ・ディランと聞いて、
(アメリカでは、どうだったのか知らないが)余計に意外だった。
村上春樹に関しては、昨年までに比べて、
おそろしいほどに周囲が静かだったのは、
毎年毎年お祭り騒ぎしすぎたことへの反省と、
さすがに皆が飽きてきたことの反映であったか。
しかし、なぜノーベル賞の芸術部門に、文学賞しかないのか、
(佐藤栄作のように芸術的に平和賞を詐取した人もいるけれど)
何度考えても、ほんとうに傾(カブ)いた不思議な賞としか思えない。
ただし、現実的に20世紀以降の地球の運命にかなり関わってきた、
もはや無かったことにはできない、特別な現象ではあるだろう。
ぼく自身は、村上春樹はまだ早いと思っているし、
ノーベル文学賞にふさわしい作家だとも思わない。
それでも、これだけノミネート対象が限定的であれば、
(漏れてくる情報で、そうとしか考えられないのであれば)
確率的には、ここ何年かの間には受賞するだろう。
(生きてさえいれば、という条件が付くが。)
日本人1人目の川端康成が1968年、
そして2人目の大江健三郎が1994年。
そのインターバルが26年であったから、
3人目の村上春樹は大江から26年後の、
2020年と予想している。(かなり本気で。)
そして川端の受賞は64年五輪と70年万博の間、
戦後国際的に日本が注目されている時期だったが、
(中国人最初の莫言も北京五輪と上海万博の直後)
大江の受賞は、あの「1995年」の前年であり、
予言的に「日本の曲がり角」を招いている。
村上の文学は、大江には遠く及ばないけれど、
その予言性においては、大江を凌駕している。
(そのことは、村上自身が十分認識している。
むしろ、虞れていると言ったほうがよいだろう。)
村上春樹には受賞してほしくないのが本音だが、
(理由はいくつもあり、ここには書ききれない)
すでに再度の東京オリンピックが決まっており、
動き初めてしまっていることは止められない。
そうであれば、せめて最悪ではないタイミングで、
と、今はただ願うばかりなのである。