ボブ・ディラン・・・ですか? (ノーベル文学賞、今年も、かなりのラプソディー)

び ん

2016年10月14日 00:02

2016年度のノーベル文学賞がボブ・ディランに決まった。


ボブ・ティランの名前が俄然脚光を浴びたのは2012年。

この年、ブックメーカー(賭け屋※)のオッズが8倍となり、

(※賭け屋もさまざまあるが、大手のラドブロークスによる)

まさに不動の本命に駆け上がった村上春樹に次いで、

11倍で2位につけたのが、ボブ・ディランであった。


「え?」とかなりおどろいたので、覚えている。

次に来たのは「おお!(すげえ)」という感情だった。

結局、この年の受賞者はオッズ3位の莫言に決まったが、

「おお!(すげえ)」は、4年遅れて今年実現したのだった。


それから毎年1位2位を続ける村上春樹の陰に隠れて、

日本で取りざたされることはあまりなかったのだが、

ちょうど現在の錦織圭のように4位とか5位とかに、

ボブ・ディランはランクインを続けてきたのだった。

(実際にどうだったかは50年後に明らかになる。)


当初の受賞予想作は1966年に書かれた小説で、

その意味では、まさに今年が50周年なのだが、

結局、作詞・作曲の全体が授賞対象となった。


今年も1位をキープすると思われた村上春樹は、

直前にケニアのジオンゴさんに1位を譲った。

(ごめんなさい。読んだことがないのです・・・)

むしろ、1位を譲り渡したことで、

意外とこれは今年いくのかな、と一瞬思ったので、

ここ数年すこしも目立たなかったボブ・ディランと聞いて、

(アメリカでは、どうだったのか知らないが)余計に意外だった。


村上春樹に関しては、昨年までに比べて、

おそろしいほどに周囲が静かだったのは、

毎年毎年お祭り騒ぎしすぎたことへの反省と、

さすがに皆が飽きてきたことの反映であったか。


しかし、なぜノーベル賞の芸術部門に、文学賞しかないのか、

(佐藤栄作のように芸術的に平和賞を詐取した人もいるけれど)

何度考えても、ほんとうに傾(カブ)いた不思議な賞としか思えない。

ただし、現実的に20世紀以降の地球の運命にかなり関わってきた、

もはや無かったことにはできない、特別な現象ではあるだろう。





ぼく自身は、村上春樹はまだ早いと思っているし、

ノーベル文学賞にふさわしい作家だとも思わない。


それでも、これだけノミネート対象が限定的であれば、

(漏れてくる情報で、そうとしか考えられないのであれば)

確率的には、ここ何年かの間には受賞するだろう。

(生きてさえいれば、という条件が付くが。)


日本人1人目の川端康成が1968年、

そして2人目の大江健三郎が1994年。

そのインターバルが26年であったから、

3人目の村上春樹は大江から26年後の、

2020年と予想している。(かなり本気で。)


そして川端の受賞は64年五輪と70年万博の間、

戦後国際的に日本が注目されている時期だったが、

(中国人最初の莫言も北京五輪と上海万博の直後)

大江の受賞は、あの「1995年」の前年であり、

予言的に「日本の曲がり角」を招いている。


村上の文学は、大江には遠く及ばないけれど、

その予言性においては、大江を凌駕している。

(そのことは、村上自身が十分認識している。

むしろ、虞れていると言ったほうがよいだろう。)


村上春樹には受賞してほしくないのが本音だが、

(理由はいくつもあり、ここには書ききれない)

すでに再度の東京オリンピックが決まっており、

動き初めてしまっていることは止められない。


そうであれば、せめて最悪ではないタイミングで、

と、今はただ願うばかりなのである。



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