斎場御嶽を荒らすのは誰だ!

び ん

2006年03月16日 11:38

なんくる主婦のpyoさんと上等沖縄司会屋の吉澤さんからコメントをいただいた。

それより前に、シマウタ37・6度のKUWAさんからメールをいただいていた。

いずれも昨日のことである。

ぼくは、きのうは朝からばたばたと用事に追われ、帰宅後はPCを開く余裕もないまま寝てしまったので、きょうになって気づいた。

きのう読んでいたら、おそらく寝られなかっただろう。


読んでください!

まずは、吉澤さんの記事。

斎場(セーファー)御嶽事件


そして、KUWAさんの記事。

世界遺産『斎場御嶽』が荒らされた!


そして、『琉球新報』2006年3月15日朝刊(23面)

斎場御嶽の「こがね壺」・香炉盗まれる


憤りは、いまは胸に収めて、さてぼくたちに出来ることは?・・・

自分のできる範囲内で、この情報を広めることだろう。

信じがたいこのふるまいをおこなった者の意識として考えられることは、

1、売り飛ばすことで収入を得る。

2、ただのいたずら。

3、見ていて欲しくなった。

4、宗教的な意識からの計画的犯行。

などが考えられる。


1であれば、『琉球新報』などの報道によって売却が難しくなっているはずだから、さらに持続的にこの事件を問題にすることで、犯行者に売却をあきらめさせる(売却できなくさせる)ことで、返却、あるいは別の場所への放置の可能性が生じる。

2であれば、低年齢層などが想定できるので、持ち帰ったものの価値に気づかせ、自らがおこなったことの重大さを教える。

3は、そのまま収蔵される危険性がともなうが、やはり犯罪性の大きさを認識させる機会を、より広範囲に、より持続的に設ける必要性があるだろう。

4は、もっとも難しいケースであるが、やはり、「それはあなたが個人的に持っているべきものではない」という認識を、地道に喚起する以外にあるまい。


こがね壺も、香炉も、見る人が見ればすぐにわかるものであるから、長い目で見れば(ヨーロッパで頻出する美術品盗難の大部分がそうであるように)出現する可能性は高いと考えられる。

また、1999年の復元品であるから、美術品としての価値は高いものではない。

いずれも2つずつある、こがね壺と香炉のひとつずつが盗まれていることからは、売却目的ではない可能性が高いと予想できるが、逆に、単なるいたずらであるとすると、気軽にどこかに捨てられてしまうケースも考えられる。

その意味で、可能な限り早く、周辺を中心とした捜索(心ある人たちによる大人数での探索)がおこなわれることを希望する。


もちろん、問題は、貨幣価値や美術品的な価値の高低にあるのではない。

「心」にある。

近年頻発する聖地荒らしに、一体何が拍車をかけているのか。

そう考えたとき、誰もがこの問題に無関係ではないことがわかる。

誰もが、この問題に無関心でいてはいけないことがわかる。


【付記】

慌てて記事を更新しましたので、あとから少々手直しをしました。

株価の上昇、給与体系の好転、金利の見直し、成長率の上方修正・・・

「お金よりだいじなものがある」という痛い教訓に飽きたとでも言うように、

またぞろマネーゲームの血なまぐさい匂いが漂い始めた気配がします。

格差の拡大には目をつぶり、セーフティーネットには大きな穴があいたまま、

犯罪者検挙率は低迷を続け、愛国心という名の暴力装置へ教育現場が押し流され続ける。

一部の人間に現世的な冨が集中し、より多くの人々が不遇と被搾取の意識をつのらせてゆく。

社会の表層だけはキレイに塗り固められて行くけれども、一皮剥けば深層にしわ寄せされたままの問題は、かつてのバブル期以前よりも確実に拡大している。

そんな社会の「歪み」と、「心の救済の場」である聖地への暴力とは、無縁ではない。そう思うのです。

ある意味で、無垢であり、より純真である野宿者への襲撃が、内地でほぼ毎日のように繰り返されていることも、やはり関連のある事件でしょう。

無垢であり、純真でありたいと願う心を持ちつつ、汚れた社会の圧迫を最大限に受けて呻吟する生命が、悲鳴のように、発作のように起こしてしまう犯罪のひとつが弱者(より無垢であり、純真である者)への襲撃であり、これは聖地(最も無垢であり、神聖である場所)への襲撃と重なるのではないか、と現在のぼくは理解しています。

もちろん、それだけで説明のつくことではないとも感じつつ。


今回の旅で、垣花グスク、垣花樋川、ミントングスク、玉グスク(外郭のみ)、中グスク、大里グスク、知念グスク・・・と、聖地に足を運びました。

そして、開発・再開発・整備・安全管理・・・といった名称でおこなわれる、聖地の「破壊」(と一言で言ってしまいたくはないのですが、百歩譲っても現状保存の否定であり、形状、すなわち先人たちが積み重ねてきた「祈りのかたち」の変更です)を、ぼくなりに見てきました。

それをまだうまく自分の言葉でまとめ切れないまま、日常の雑務に追われる中で知った今回の事件であっただけに、さまざまな思いが去来して、なかなか整理できません。

ぼく自身は、前回(昨年9月)は入ることのできなかった斎場御嶽に、3日目(3月13日)になって確実に「呼ばれている」という実感を得ました。

ただ、いささか以上のトラブルによって(これは当事者である中屋ヒロキが、自分で判断して、そうすべきだと思えば報告することと思います)、斎場御嶽には行き着くことができませんでした。

そういった、直前の個人的な思いも含め、以上の記事をUPしました。

ひとりでも多くのかたに、問題意識を共有していただければと願っています。


【再追記】

こちらも読んでいただけますか(琉球屋文明堂「御嶽の悲劇」)


【さらに追記】

ポータラカさんからコメントをいただいた。

香炉の盗難、あるいは破損は、これまでにもくり返しおこなわれていたらしい。

mixi[久高島トピック]またまた・・・悲しい事件

それで今回の「事件」の重さが薄れることはないはずだが、問題をより多角的に見るために、より多くの情報を集めることが必要だと切実に思う。


昼から頭の片隅でずっと考えてきて、やはり観光客のしわざではないかという感覚が強い。

上の【再追記】につないだ「琉球屋文明堂」の中屋ヒロキ(今回の沖縄旅行の同行者でもある)が、「行く価値のない人間が行く」ということを書いていたが、沖縄の観光地化(皮相な観光地化)が進み、「世界遺産」という言葉が独り歩きして、「行ってはならない人間が行ってはならない場所に行く」頻度が、あまりにも増えすぎたと思う。

あらゆる人間がどこに行ってもいいというのは民主主義の原則のひとつであるが、それは他者の権利を侵害しないという大前提のうえでの約束だ。

今回、聖地のさまざまな状況を見て、考えることが多々あった。そして、「行ってはならない場所に不特定多数の人間を導きいれるのは罪だ」と再認識している。経済優先、観光地の美名のもとに何でも許されるという姿勢によって、従来、海を中心とする自然に向けられていた暴力が、世界遺産指定を大きな曲がり角として人為に向けられはじめたと感ずる。

それは、むろん自分自身にも突きつけられる言葉である。

KUWAさんが言う「鎧で固めた聖地」の無残なイメージ、事件のことを何度も書こうとして書けないというpyoさんのつらさ、「シマウタ37.6度」やmixiの久高島コミュに寄せられたコメント。・・・

「沖縄が超大好き」ということもさることながら「非沖縄出身者」という点で通じる意識を勝手に共有しつつ、吉澤さんからのメールの切実さを反芻している。

いまは、報道によって興味本位に誘発される犯罪の連鎖がないことを祈るのみ。


【さらにさらに追記】

panakkoさんの「夢の沖縄時間。」をつなぎます。

こがね壺や香炉を持ち出した人に災いが降りかかっていることを心配する視点は、ぼくにはありませんでした。

いま、少しの時間がたって、落ち着いて考えてみれば、やはり「罪を憎んで人を憎まず」の精神は大切であると思えます。