100年前の柳田国男のことについては、
もう少しあれこれ書き加えるつもりだったが、
ほとんど書き加えることなく、3月になった。
というか、3月も、もう1週間が過ぎようとしている。
(「去ってしまう3月」である。1週間ずつは長いのだが。)
柳田国男が東京に帰着したのが3月1日。
6日(日曜日)には、早くも沖縄の話をしている。
折口信夫(おりくちしのぶ)の家で開かれた研究会。
その話に触発された折口は、沖縄渡航の準備を進め、
4か月後の7月から足掛け3か月、沖縄に滞在している。
100年前の航路事情を考えると、この行動力はすごい。
当時の折口が、いかに柳田に敬意を抱いていたとしても、
また、大学の臨時講師として比較的時間があったとしても、
よほどの感動を抱かなければ、沖縄行きはなかっただろう。
1か月ほどさかのぼって2月9日の話をしたい。
柳田国男が那覇港から帰路に就いた日である。
大正10年(1921)、2月9日(水曜日)。
100年前のこの日、柳田国男は沖縄を離れた。
帰京するのは3月1日なので、まだ「旅の途中」である。
ともあれ100年前の2月9日、柳田は那覇港を出発した。
出発の4日前(2月5日)には、那覇区内の松山小学校で、
(まだ「那覇市」ではなく、「那覇区」であった頃。)
「世界苦と孤島苦」と題した講演をおこなっている。
「世界苦」というのは、現在の世界を思わせる。
100年後のわたしたちに向けて語られた、
まさに、そんな講演でもあったことになる。
松山小学校跡地は、現在、松山公園になっている。
廊下の窓から松山公園が見えるホテルに、かつて泊まった。
公園前の駐車場にレンタカーを停めて、朝取りに行き、
その折に公園を散歩した記憶が鮮明に残っている。
写真が出てこないので、先月末の松山公園の、
桜を撮った「Gakii's Barの肴」の記事をリンクさせていただく。
(参照:
「花壇」 2020年1月29日)
もはや、沖縄よりこちらの桜が気になる季節になった。
松山小学校(尋常小学校)は、その後国民学校となり、
隣の第二高等女学校とともに、沖縄戦で灰燼に帰した。
現在、沖縄に「松山小学校」という小学校はない。
同じ名前の小学校は、全国にたくさんありそうだ。
そう思って、ネットではあるが、ざっと調べてみた。
大崎(宮城県)に1校、酒田(山形県)に1校、
ラーメンで有名な喜多方(福島県)にも1校。
以上、東北地方に3校。
関東では、さくら市(栃木)に1校と少ない。
中部地方では、春日井と豊橋に1校ずつの2校。
どちらも、愛知県である。
近畿には見当たらず、中国地方も見つからない。
四国では、坂出(さかいで・香川)に1校。
愛媛の松山市には、「松山小学校」はない。
いずれも、「松山〇〇小学校」という名前だ。
埼玉県の東松山市にも松山小学校はない。
九州では、鹿児島県(志布志と知覧)に2校。
もっとあるような気がするが、合わせて9校。
そもそも、松という樹木は針葉樹(北方系)なので、
北海道や東北に、もっとあると思ったのだけれど。
たしかに針葉樹林帯の多い東日本の6校に対して、
西日本は3校で、差異があるとは言えるのだが。
室町時代から大掛かりな松の植林が始まった
近畿地方に、1校もないのが意外である。
鹿児島に2校あるというのも意外だった。
鹿児島の松山は、おそらく黒松である。
溶岩域に生える代表的な植物なので。
そして、沖縄の松山は琉球松なのだろう。
最近、調べる機会があって知ったのだが、
日本列島には、なんと1600万年前から、
松があったことがわかっているのだそうだ。
(2016.6.22 最近、奄美の地形が、やたら気になります。)
さて、柳田は2月9日に奄美大島の名瀬に到着して、
奄美に1週間滞在し、15日に鹿児島に着いた。
『海南小記』には、奄美諸島を取り上げた考察も多い。
たとえば、第1章第8節に載る「いれずみの南北」では、
奄美大島と宝島に触れて、薩南七島と琉球列島を比較し、
9、10、11節では、いずれも奄美大島を取り上げている。
「三太郎坂」では名瀬近辺の悲喜こもごもの逸話を。
「今何時ですか」は奄美の子どもの不思議な遊びを。
(ウニムチュー=鬼餅は沖縄と共通する習俗だが、
上海と同じ遊びがあるというのは興味がひかれる。)
「阿室の女夫松」では、奄美大島における祭祀を。
(奄美大島では、祝女(ノロ)の補佐役として、
「グジ」と呼ばれる男の補佐役が5名いて、
彼らが古代歌謡を伝承するという指摘には、
じつにさまざまなことを考えさせられる。)
12節では加計呂麻島と本島北部(国頭)を比較し、
13節は沖永良部島を取り上げた話題である。
(以前の記事で奄美諸島の写真を並べたのも、
『海南小記』のことを少し意識していたわけで。)
つまり、奄美諸島に関する、ほぼ6つの考察を書いている。
ちなみに、九州の日向(宮崎)が4節、豊後(大分)が2節と、
『海南小記』は決して沖縄のことばかりを書いてはいない。
沖縄本島は9節、八重山は4節なので、九州と沖縄は、
取り上げた話題の数では、ほとんど拮抗している。
(「沖縄を知る」ためには、これが妥当な方法だろう。
100年後の今でも。むしろ100年後の今だからこそ。)
それでも、『海南小記』の取り上げられるのが、
ほとんど沖縄とのかかわりにおいてであるのは、
柳田の最大の関心が沖縄に向かっているからであり、
その後100年にわたって生きる大きな設問の数々が、
沖縄を取り上げた節の中でなされているからである。
こんなふうに、今年は1月や2月ばかりではなく、
そのあともずっとメモリアルな日々が続いてゆく。
3月からは「海南小記」連載開始の100周年だし、
その連載は、このあと5月20日まで続くのである。
ちなみに、那覇が市になるのは、その年の、
つまり、1921年(大正10年)の5月20日。
奇遇にも、「海南小記」の連載最終日である。
柳田の出航は、泊港からだったはず。
100年前も、おそらく港の形は現在と同じ。
周囲に建物が建て込んだ都市の港湾だからだが、
逆に、それ以上拡張できないまま年月を重ねた。
その意味で離島航路に特化した現在のあり方は、
泊港にとってみても、幸せなことといえるだろう。
タグを入れたのは、何年ぶりだろう。
かつてはがんばって入れていたのだが、
いつしか面倒になって、やめてしまった。
いくつ入るかなと思ったら10個だった。
(ということすら、すっかり忘れていた。)
正直、「ウミガメと一緒に海に帰ったのか?」と、
思われるくらい更新できなくなるかとも思ったが、
(たぶん次に沖縄に行けるようになるくらいまで。)
「忙中閑あり」で、少しだけ時間がとれたので、
100年前の柳田国男のことだけはオトシマエを
(などと書けば物騒だが)、つけようと思った。
折口(釈迢空)よりは、やはり柳田が好きで、
彼が沖縄に滞在した100年前の追体験は、
(つまり去年の12月から今年の2月まで)
どこかで、しておきたかったなと考えている。
今年の5月15日も、どうなるかわからない。
むしろ、来年の「復帰50周年」の日程を、
すでに考えていたりする(ちょうど日曜日。)
とりあえず、日曜日というのはありがたい。