2021年09月09日

慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。

今年も沖縄に行けないまま、慰霊の日がやってきて、

6月23日の記事の最初に、こんなふうに書きました。


『慰霊の日が始まって60年目の6月23日。

回数でいえば61回目の慰霊の日ですね。


今年から数えてちょうど60年前に当たる、

1961年6月22日に慰霊の日が始まり、

4年後の1965年から、23日になりました。』


もう2か月、いや2カ月半も前のことです。


ところが、書いたあと少し落ち着かないまま、

しばらく記事のことが気に掛かっていました。


去年に続いて、行けないままに過ごすこと。

それは確かに落ち着かない理由でしたが、

落ち着かなかった理由のもうひとつは、

「回数」という言葉にあったかもしれません。


おそらく、慰霊の日の意義や価値は、

これまでの回数などではありません。

那覇市が市政施行してから100年とか、

柳田国男が沖縄学を立ち上げて100年とか、

そういったこととは別のところにあるのですから。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2016.6.22 平和祈念公園)


すなわち、大事なことは日付なのではなく、

今から76年前に何があったのかということ。

そのことを忘れないこと、だれかに伝えること、

だれかが未来のだれかに伝えてくれるように。


そして、できることならば、否、できうるかぎり、

その悲劇につながる兆候を摘み取ってゆくこと。

摘み取れなくても、摘み取ろうと試み続けること。


そのような悲劇を二度と繰り返さないために。

二度と繰り返さないと思うことを続けるために。

自分の命が悲劇を繰り返すことの側にではなく、

ほんのわずかでもそれを止める側にあるために。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2005.6.24 同)


ずっと議論されてきたように、6月23日という日付は、

沖縄戦に送り込まれた日本軍人のトップが自決をした日。

この日の未明に、摩文仁の司令部内で牛島中将と長中将が、

切腹をして、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされています。


そして、当初6月22日に慰霊の日が定められたのは、

自決が22日のうちになされたと判断されたからでした。

つまり、6月22日にしても、23日にしても、結局は、

彼らの自決の日に定められたのが慰霊の日でした。


彼らこそが、多くの沖縄県民を追い詰め、苦しめ抜いた、

中には略奪をはたらき、人権を踏みにじるふるまいをした、

それどころか、自決を命じ、直接に手を下した者さえいる、

そんな人たちの代表であったことは間違いないでしょう。


ただ、最近こんな絵葉書を入手しました。

おそらく太平洋戦争の末期にひとりの兵士が、

沖縄から山形の国防婦人会の女性に出した葉書です。


残念ながら消印は薄く、うまく読み取れないのですが、

乃木希典を描いた2銭切手は、1937年に発行され、

昭和10年代を通じて使用された「第1次昭和切手」。


絵葉書の絵柄(写真に手彩色して印刷)は美しく、

「沖縄植物 梯梧の森」と題して、一列に並んだ、

デイゴの並木が画面いっぱいに広がっています。

デイゴの背景には高く長い石塀が見えるのですが、

ぼくにはどうも首里の風景のように思えてなりません。


彼は慰問文へのお礼を述べたあと、「当地は内地の

五月頃の気候にて、桜も過ぎ、目に見えるもの全て、

真緑の風緑です」(「深緑の風景」を書き誤ったもの?)

と、記しています。(旧字体は、新字体に改めました。)

「郷里のお便りを頂き感激し居る次第」とあるので、

おそらく、山形県出身の若い兵士なのでしょう。


「桜も過ぎ」「内地の五月頃の気候」とあるところから、

たぶん2月頃に出した葉書ではないかと思われます。

そして、以下たいへん丁寧な文章がつづられています。


内地から出征した兵士たちの多くは、そんな人たちでした。

礼儀正しく、季節の巡りを楽しみ、人の情けに感謝する、

1940年代を生きる、そんな「普通の青年」たちでした。


ただ、そんな青年が沖縄の人たちを自決に追い込み、

あるいは自分の命を守るためにガマから追い出した、

そのような運命を余儀なくされた人もいたのでしょう。


今となっては、だれがどうしたのかはわかりませんが、

そして、「それが戦争だから」という言いかたには、

当事者の身になれば、逃れたくないと思うのですが。


そして、きっと彼の名前も「平和の礎」に刻まれています。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2015.6.27 旧海軍司令部壕)



定められた当初、「慰霊の日」に対して、

反対があったことは、むしろ当然のことです。

そして、今でも反対の感情を抱いている人や、

反対とは言えないまでも、釈然としない思いを、

抱えている人がいても不思議ではないと思います。


とりわけ牛島中将に対しては、自決直前に出した命令文、

「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」という直言が、

その後も、さらに多くの犠牲を生じさせたことは間違いなく、

その点が、敗戦後の歴史の中で批判の対象となってきました。


その一方に、6月13日に豊見城の海軍司令壕で自決した、

大田中将が亡くなる1週間前の6月6日に送った電文、

「沖縄県民 斯く戦えり 県民に対し 

後世 特別のご高配を賜らんことを」

という、まさに対照的なフレーズがあっただけに、

牛島中将の「罪」の大きさがクローズアップされました。


そんな牛島中将の自決の日である6月22日や23日を、

慰霊の日に定めることに抵抗のある人、あった人が、

たくさんいたことは、あまりにも切実に納得できるのです。


しかし彼らにも命があり、それを守る権利も希望もあった。

もし立場が変われば、逆の運命でなかった保証はない。

もちろん結果は結果として、置き換えは不可能ですが、

ふと、そんなふうにも、思うことがあるのです。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2018.6.23)


しかし、それ以後も、断続的に戦闘は続き、亡くなった方がいる。

むしろ6月24日以降が、ほんとうの戦争であり地獄であった人も。

では、そうであれば、なぜこの日で線を引く必要があるのか、と。


現在もなお沖縄市がそうしているように、降伏文書調印によって、

沖縄戦がほぼ全面的に終結を迎えた9月7日という日をもって、

慰霊の日にすべきだという意見には確かに一理あるでしょう。


うがった見方をすれば、8月6日の広島、9日の長崎のあとに、

8月15日の「終戦記念日」があって、平和や慰霊への思いが、

いったん収束したあとの9月7日に慰霊の日を持ってきたくない、

そんなふうに考えた日本政府の関係者がいたのかもしれない。


もちろんこれは架空の話です。慰霊の日が定められた60年前、

1961年に沖縄はまだアメリカ合衆国の統治下にありましたし、

そこには日本政府の関与できる余地など当然ありませんでした。


6月23日に沖縄の戦争は終わり、しかし本土ではさらに2か月、

戦争は続き、そんな苦しみのなかで広島や長崎の悲劇があり、

しかし8月15日に天皇陛下のご決断で戦争を終わらせられて、

日本人は、やっと戦争の苦しみから逃れることができたのだと、

そんな物語を壊されたくない人がいたとしても不思議ではない。


こちらは、書いていてせつなくなるほど、ありそうな話です。

ただし、実際に地上戦に巻き込まれた立場から考えれば、

あまりにも自分勝手なストーリーにほかならないでしょう。

それは広島や長崎にとって「終戦は原爆のおかげ」説が、

あまりにも一方的なストーリーであることと似ています。


琉球立法院が、慰霊の日を6月23日ではなく22日に定めた、

その理由は県立公文書館の説明が、簡明ですがよくわかります。

参照1:沖縄県公文書館HP 「慰霊の日」のはじまり

今年『琉球新報』にも、そのことを取り上げた記事がありました。

参照2:琉球新報デジタル 2021年6月23日 05:40


いずれにしても、1974年になって「6月23日」が、

いわば「県民のもの」になるまでは、沖縄県内でも、

あまり知られていないかったというのは確かなことで、

そうであれば、60年目であるとか61回目であるとか、

そういった数字は、なおさら意味が薄いかもしれません。


しかし、これらのことをふまえたうえで、それでもやはり、

6月23日には半世紀以上にわたって祈り続けられてきた、

「意味」があり、「価値」があり、それゆえに「重み」がある。

わたしもまた、そのように考える者のひとりです。

多くの人はそんなふうに考えてきたし、これからもそうでしょう。

そこに他には代えがたい、かけがえのなさがあるのだと思います。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2017.6.23)


そして、それに加えて60年前の6月22日に慰霊の日を定めた、

そのあと1964年前までの4年間、この日が慰霊の日であった、

その事実も大切ではないかと思うのです。その間の祈りにも、

さらに、6月23日ではない日々の、たくさんの人々の祈りにも、

思いをはせることこそが6月23日の意味なのかもしれないと。

そんなことを思うのです。


もちろん、多くの人たちは、言わなくてもそう思っているでしょう。

23日以外にも平和記念公園に行くことのできたわずかな経験から、

そう思うことも、近年多くなっているということを1年前に書きました。


今年も去年に続けて行けないまま、そんなことを考えました。

今年の式典への参列者は、コロナ対策を徹底して30名。

これが本来ありうべき「安心・安全」に対する姿勢でしょう。


書いていて、数字にだけこだわればいいのかとも思いますが、

見えないものは、数字で把握するところから始まりますので。

そもそも、今回のコロナ禍に数字が存在しなかったならば、

いったい何が伝わり、何が動き出しただろうかと思います。


76年前までは、命綱である数字を軍部の恫喝によって、

メディアは簡単に書き換えて「わたしたち」に知らせた。

そのような改竄の悪夢を安倍政権は蘇らせたわけですが、

まだメディアは、そのことを危惧する気概は持っていると、

わずかな期待だけはまだ持っていたいではないですか。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2008.6.23 怒りの爪とぎ)


閣僚の談話のなかでも、沖縄復興への決意を問われて、

河野大臣が開口一番「これから先のことは白紙」と答え、

(仕事を抱え込みすぎて、もはや頭が回らないのでしょう。

それ以後、いったい何度そう思わせられてきたことか。)

唖然とするとともに、これが現政権の本音であることを、

いやというほど鮮烈に印象づけた以外は代り映えもせず。


しかし、これほど正直な談話も、なかなか聞けることではなく、

それはそれで貴重な本音だったといえるのかもしれません。

その後も一貫して河野氏は「その場での本音」を語り続け、

結局、そのうちのいくつかは「大嘘」であったことがわかり、

この政権では珍しく、頭を下げて謝罪を繰り返しつつも、

(「珍しい」のは謝罪すべきことをしていることではなく、

「謝罪する」ということについてです。念のため。)

この政権がどれだけ信用ならないものかを宣伝しています。

(この信用ならなさは、命にかかわる危険を内包しています。)


ある程度の時間をかけて記念式典の記事を追いましたが、

菅首相の談話は、ほとんど通り上げる記事がありません。

ほかならぬ本人が、意味もないと思って出した談話など、

(はたして本人は、官僚の作文に目を通したものやら?)

べつに読まなくても、何の損失にもなりはしませんけれど。

(そして8月6日、ついに馬脚をあらわしたわけですが。)


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2007.6.23 米須)


沖縄タイムス配信の当日の式典前の映像(11:00~)を、

見る機会がありましたが、一昨年までの6月23日には、

祈りをささげる、たくさんの人たちがやって来ていた、

平和の礎にも、とても少ない人の姿しか見えません。

しかし、だからといって祈る気持ちが減ったわけではなく、

多くの人たちは、それぞれの場所で祈りを捧げたはず。


中継の途中で降り出した雨を「涙雨」と呼んだ報道も、

いくつか見かけました。紋切型の表現ではありますが、

それだけに、この言葉には、うなずかせる力があります。


慰霊の日から2か月以上過ぎて思うこと。
(2019.6.23)


来年こそは、たくさんの人たちが平和祈念公園で、

祈りをささげることのできるいつもの6月23日が、

あたりまえのように戻ってきてほしいと思います。


慰霊の日からもう2か月以上たったことにおどろきつつ、

今年も、時間の長さを実感しにくい日々が続きます。


それでも、慰霊の8月は今年もやってきました。

8月6日、9日、そして15日が過ぎて行き・・・

戦争が決して過去のものではないことを、

思わせる事件が世界中で次々に起こり、

コロナの感染爆発を、多くの人たちが、

ついに「戦時中」と呼び始めています。

「野戦病院」という名称まで復活し、

それでも権力者は権力掌握のため、

連日連夜離合集散を繰り返し・・・。

1年たってまた嬉々とした政争、政局、

つまるところ、どうでもいい数合わせを、

延々と見せられるのかとげんなりです。


そんなことより、生き延びましょう、みなさん。


・・・ついテンションが高くなりました。

前の記事を書いて、もう1か月。

ああ、もう、1か月かぁと思います。

(ワタシの夏休みは、どこ?)

気がつけば朝晩ずいぶん涼しくなりました。

今はもう誰も祝わない今年最後の節句、

9月9日の「重陽」(菊の節句)に向けて、 

とりあえず以上を記しておこうと思ったのです。




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