2020年06月25日

55年目の6月23日を過ぎて。

前回の記事「6月22日の「慰霊の日」」を書いて、

しばらく、なんだか落ち着きませんでした。


「慰霊の日」が6月22日だなんて、

この人は、何を勘違いしているんだろう?

タイトルを見た人からそう思われないだろうか・・・

まあ、そんなことは、たぶんないんでしょうけれど。


55年目の6月23日を過ぎて。
(2017.6.23 平和祈念公園)


そして、2015年と16年には慰霊の日ではなく、

平和祈念公園に行けたのが、少し遅かったり、

少し早かったりという話を書いたのでした、


その次の2017年からは、6月23日当日に、

18年、19年と3年続けて行くことができました。

(そして今年は、6年ぶりに「お休み」だった、と。)

とにかく、その場所に行くことではじめて見えてくる

(行かなければ、当然のように見過ごしてしまう)

その「何か」に出会うことが大事だと思うので。


15年から18年までの4年間は炎天下で、

とりわけ18年は、戸外に出ていられず、

資料館の中に入って談話を聞きました。

同じように、資料館の中に「避難」して、

式典に参加しているたくさんの人々の中で。


式典会場の方向は全面ガラス張りですし、

周囲に立ち並ぶたくさんの人たちもいて、

たしかにそこも「会場」なのだと思いました。


残念だったのは、翁長前知事の声を聞く、

それが最後の機会になったということ。

まさかそれから2か月もたたないうちに、

亡くなられるとは思いも寄りませんでした。


55年目の6月23日を過ぎて。
(2018.6.23 同上)


今年の慰霊の日は「くもり」と報道されて、

「避難」しなくても大丈夫だったのでは?

南部の最高気温も30℃だったということで、

大阪の33℃のほうがよっぽど暑かったですね。


しかし、「式典の規模縮小」によって、

会場の周辺では(そこも「会場」ですが)

おそらく、例年よりも多くの人たちが、

テレビやカメラには映らない場所から、

それぞれ式典を見守ったことでしょう。


去年も、ひさしぶりに曇っていました。

というか、雨でなかっただけよかった。

テントを張り、椅子を用意する式典が、

(そこだけが式典だと思い込む意識が)

ぼくは、あまり好きではないのでしょう。

8月6日の広島に行っていた学生時代から、

式典会場にはあまり近づかなかったために、

周辺にいる人たちのお話が聞けたことは、

今でも、自分の「土台」になっています。


そうやって「6月の沖縄」に行くことが、

自分にとってどんな意味があるのか、

それは、本当のところはわかりません。

(今でも「8月の広島」や「8月の長崎」に、

行こうと思えば行けるのに、なぜ沖縄なのか。)

自分の中では、折り合いをつけたつもりなのですが。


とはいえ行けなかった自分も知っているので、

行けた(行ける)ことへの感謝は忘れていません。

今年は6年ぶりに行けなかったのですが、

行けない自分を大事に当日を過ごしました。


55年目の6月23日を過ぎて。
(2019.6.23 同上)


夜になって、慰霊の日関係のネット記事を読み、

(駆け足ですが、ここ何年かは沖縄にいたので、

内地から見る報道も、かなり新鮮でしたよ。)

中でも「平和の詩」は、何度も読み返しました。


翌朝にも、充実した記事がいくつも続いて、

じっさいに沖縄にいて考えることとは、

また別の側面から考えることができました。

(それらはまだまったくまとまっていません。

ただ、このような記事を書いただけです。)


そして、また「55年目の6月23日」というタイトルで、

75年なのに間違えているぞと思われないかどうか。

そんなことも思いながら、こんなタイトルをつけました、


前の記事に書いたように、今年は沖縄戦が終結して、

75年目の節目となる年であることは知っています。

ただ、沖縄の慰霊の日が6月23日に定められたのは、

今から55年前、終戦20年目の1965年のことでした。


6月23日の「意味」について難癖をつけるつもりはなく、

これだけの長い年月を「慰霊の日」として過ごしてきた、

「6月23日」という日付に対する敬意も持っています。

(それこそは平和祈念公園で教えられたことです。)

なので、できれば6月23日に書きたかったのですが、

火曜日ばかりは、どうにもなりませんでした・・・。

2日遅れですが、投稿しておきたいと思います。




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