2020年05月01日

A氏からの電話。(6月の沖縄をあきらめる)

5月を前にして、A氏から電話があった。

ここ何年かの間、6月23日の沖縄に、

いちばん多く同行してもらっている。


「そろそろ、6月ですね」

「そうだね、6月だねぇ」


「今年の6月は、むずかしいですね」

「残念ながら、むずかしいでしょうね」


まだ日数はあるので、予約は不可能ではない。

しかし、デニー知事が来県を遠慮してほしいと

わざわざ談話を出すほどの、この状況のなか、

それでもあえて行くという選択肢は持てない。

現在の状況が、この後、劇的に好転し、

6月までに問題が消えるとは思えない。


それでも、キャンセルしない人たちがいる。

もちろん移動しなければいけない場合もある。

老母に電話をしながら、改めてそう思う。


「6万人が1万5千人まで減ったようですね」

「うん。でも、まだ1万5千人もいるんだね」


考えてみればいい。自分の住んでいる場所に、

それも、決して広いとはいいがたい島に、

集中的に、万を超える人たちがやって来る。

それが、どういうことを意味するのかを。


大事な場所なら、行ってはいけない。

大事ではないなら、行かなくていい。


もちろん、例年は、万ではなく何十万という、

たくさんの人たちを受け入れることで潤った、

観光立県に積極的な経緯はあったのだ。


しかし今年ばかりは、事情が全く異なり、

いま私たちは「異世界」の空間の中にいる。

それは、ひとつ間違えば命にかかわり、

人を死に至らしめる、そんな空間なのだ。


ぼく自身も、そこが「異世界」であるから、

沖縄に行くことが、とても楽しみであった。

それは端的に呼べば「欲望」と呼べるだろう。

あの場所で風に吹かれることが気持ちいい、

それは明らかに「欲望」と呼べるものである。


それを満たすために何か月も前から準備し、

自分がいないことで生じるリスクを抑えて、

それほど安くないお金を払ってでも行く。

考えてみれば、そんな自分を動かすのは、

あの景色を見た時に感じた心の動きを、

あの道を行く時に感じる胸の高鳴りを、

もう一度味わいたいと思う欲動である。


であれば、キャンセルしない人たちや、

パチンコ屋通いをやめられない人たちと、

いったい、どこが違っているのだろうか?


できるだけ観光客が行かない場所を選び、

「自分だけの」場所と思って過ごすのは、

人が少ないからゆっくりできるぞと思い、

この時期に行く人とどこが違うのか?


そんなふうに考えると、心もとなくなってくる。

だから自分に対し、よけいに強く「行かない」と、

言い聞かせる。言い聞かせようとこころみる。

行ってはいけない場所には、行かない。

行くべきではない時には、行かない。


A氏からの電話。(6月の沖縄をあきらめる)
(2019.6.23 安里川の「止まれ」)


沖縄の話は、つらくなるのですぐやめて、

そのあと、お互いの近況に話題を移した。


A氏との共通の話題には、去年も同行した、

S氏の話題が、すぐに出て来るのであるが、

彼も自分の場所で頑張っているようなので、

あえて「知らんぷり」を続けることになった。


ぼくらの中では、ぼくが一番のハイリスクなのだが、

こんなところで、たおれるわけにはいかない。

(もちろん、だれにもたおれてほしくない。)


きっとまた、行っていい時がやってくる。

その時が来ることを信じて、頑張ろう。


今年は、6月の沖縄はあきらめる。

行っていい時に、行けることを願って。




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