今から70年前のこと。
1936年10月19日午前5時25分(日本時間6時25分)、
中国近代文学の父・魯迅(ろじん)は、上海で、その生涯を閉じた。享年56。
上海で、
魯迅故居を案内していただく予定にしていた日は朝から雨が降り、
雨をおしてまで行く気になれず、ホテルの目の前にある上海博物館に切り替えたのだった。
故居を訪れるのであれば、また、魯迅のためだけに来ればいい。
魯迅が亡くなる直前に書いた書き付けを、
そういえば
厦門(アモイ)大学で見たのだった。
魯迅が住んでいたままの形を保存する
記念館。
計200㎡ほどあろうかという2階の4室が展示に充てられていた。
魯迅が厦門にいたのは、1926年(つまり、亡くなる10年前)の約半年間。
3・18事件で北京を追われ、厦門大学で中国文学史の教授となったのである。
しかし、厦門大学の教育方針に反発し、1年もたたずにそこを飛び出したという。
それほど短期間であったにもかかわらず、魯迅の離職を惜しむたくさんの学生が、
名前と言葉を連ねた寄せ書きが魯迅記念館に展示されていて、強く印象に残った。
魯迅といえば、ぼくには「
故郷」。
たしか中学2年の
教科書で出会ったその小説は、ある意味、衝撃であった。
たぶん、小説というのは、「夢」や「希望」を描くものだと夢想していたからだろう。
あるいはまた、その小説が「大人になることの残酷さ」を余す所なく描いていたからだろう。
そんな小説には、それまで出会ったことがなかった(出会っていても読みとることができなかった)。
そして、ふと気づけば、
ぼくにとっての「故郷」は、魯迅の小説の通りではあるまいか。
しかしそれにしても魯迅に感じるこの親近感は、どこから来るのだろう?
ひとつだけ言えることは、紹興に生まれ、南京・東京(日本)・仙台・杭州・紹興・南京・北京・厦門・甲州・上海と「逃走」を続けたその生涯が、じつによく理解できるからだろう。
日本留学時代、魯迅は仙台の医専(医学専門学校)に入ったが、生涯の生業を文学に定める決心を固めて医専を退学した。
それが今から100年前、1906年のことであった。
明治39年。漱石が『坊ちゃん』を発表した年である。
そして、その年に漱石が住んでいた本郷西片町の家を、
翌年漱石の転居後、まったく偶然に魯迅が借りて住むことになる。
魯迅魯迅・・・とつぶやき上海の写真を選んだら、上のような写真になった。
やはり、魯迅といえば陋巷の人々であるからなぁ、としばしナットクしていたが、
(無礼な言い方であるとは自覚しつつ、「下町」や「庶民」ではしっくりこないので)
ただひたすら単純に、「魯迅」と「路地」のシャレから来たのかもしれないと気がついた。
さて、70年後の「わが祖国」を見たならば、彼はどんな感想を漏らすことだろう。
一日遅れの記事ではあるが、しきりに魯迅のことがしのばれたので記しておく。