2005年11月11日

羽広

3つ下(↓)の記事「ゴールド!」に、オオゴマダラのことを書いた。

興味ぶかいコメントが寄せられたので、紹介しておきたい。

まず、nakamaさんのコメントから。


話題の黄金色とは無関係なのだが、沖縄では「蝶、蛾」のことを「ハーベルー」言います。何故か蝶と蛾の区別が明白ではなのです。ちなみに「はべる」は古事記や万葉集の世界ですよね?
そしてトンボは「アーケージュー」これも古事記や万葉集の世界では「あきづ」ですね?沖縄方言には古語が生きているのだ!!!



言語の古体は周縁(中央からより遠い地域)に残るという考え方は、柳田國男の『蝸牛考』以来、浮沈を繰り返しつつなお影響力をもつ方言周圏説にもとづく。

「蝸牛」はかたつむりのこと。かたつむりの呼び名をもとに、古い言葉ほど中央(京都)より遠くに分布することを論じたのである。

ハビル(ハベル)は「侍る」、すなわち貴人の側近く仕えるという意味に比定されることも多い。確かに、貴顕の身辺を彩る意匠にも蝶が使われることが多い。

しかし、むしろその「侍る」対象は、生者である以上に死者であろう。琉球・沖縄で、蝶が死者の精霊と見られてきたことは、多くの例証があって動かない。

中でも『おもろさうし』13-965の例は、著名なもの。

  おと おなり みかみ の     (妹の生御魂の)

  あや はべる なりよわちへ   (美しき胡蝶となりて)

  くせ はべる なりよわちへ   (奇しき胡蝶となりて)

「はべる」が、妹(姉妹、あるいは愛情の対象たる女性)の魂の化身だというのである。

その「魂」は女性に限らない。蝶は老若男女の魂に見立てられてきた。

また、このように、「あやはべる」つまり「綾絹のように美しい蝶」という言い方も、連綿と続いて現在に至る。


羽広


蛾を美しいと見るか汚いと見るか、それは個々人によって異なるだろう。

しかし、おおかたにおいて現在の日本は、蝶を称揚し、蛾を忌避する文化であると言える。ただし、蛾を称揚する文化も、また、蝶を忌避する文化も、この地球上には存した(存する)。

俗に、留まるときに羽を広げるのが蝶で、閉じるのが蛾であるというものの、それは蝶と蛾を区別する十分な条件にはならない。

夜に活動するのが蛾、昼が蝶というのも同様。

手っ取り早く識者の説明に耳を傾けるならば、蝶と蛾の区別は「ない」のである。

しかしそれでも、われわれは、蝶と蛾を区別しようとする文化を生きている。

それはまた、蝶にも蛾にも、文化的なシルシをつけて生きてきたということでもある。

たとえば「夜の蝶」という言葉があり、同じ意味をあらわす「月蛾」という言葉がある、といった具合いに。


何の例証もなく言うのであるが、「はべる」の語源は「羽広(はびろ)」ではないかと考えている。

日本最大の語数を収める『日本国語大辞典』(小学館)に「羽広」は、このように立項されている。


鱏(えい)の一種である舶来の鮫皮の一つ。


そして、日本刀マニアや鮫マニア(笑)の間では有名な『鮫皮精鑒録』の用例が挙げられている。


羽広の鮫は親つぶ青く地粒大小あり郭索(がさつく)気味なり


現代語訳すれば、「羽広のサメの皮は、大きなつぶが青く、地皮についたつぶには大小があって、手触りはがさつく傾向がある」。

江戸時代には、サメ皮(エイ皮を含む)は日本刀の柄(つか)に用いるために、大きな需要があった。

この『鮫皮精鑒録』(「精鑒」は「精密な鑑定」)も、そのような目的のために出版された本のひとつである。

それはともかく、羽を広げたように見えるエイの姿を、「羽広」と呼んだのであった。


さて、チョウである。むしろ一般的には「葉広」という言葉が普及し、ハビロカシワ(葉広柏)やハビロクマカシ(葉広熊樫)などの和名もある中、ヤマトの文献の中に蝶を「羽広」と呼んだ用例を見つけられない。

ただし、沖縄で蝶をあらわす「ハベル」の語源が「侍る」であったという説明には、いささかの違和感を抱かざるを得ない。それゆえに、その羽に着目した「羽広」にも、一定の説得力があると考えるのであるが、いかがだろうか。

古来、ヤマト民族は、サメとエイとを区別することがなかった。実際、現在ではエイの仲間とされるノコギリエイを、ノコギリザメと呼ぶように。

nakamaさんが言う、沖縄ではガとチョウの区別が明白ではないということを思い出させて、興味ぶかい。

必要性のある限りにおいて、ヒトはモノを区別して呼ぶ。

そして逆に、同じ名で呼ばれるモノは「同じモノ」となる。

虹の色を2色で呼ぶ人たちがいるように。数を「1,2,3、たくさん」とかぞえる文化があるように。



次に、ガジャンさんのコメント(部分)。


マダラ系はおそらく食性による分類ではないか?食べたらまずい味になるように身をまもった蝶。ゆっくり飛んでも未経験鳥にしか襲われない。あるいは鳥にもまずい味としてDNA化しているのかわからない。

アキツ、ハビルはともにアイウです。3母音変身することで共通しています。アキツがヤマトでハビルがウチナーじゃないか?ヤマト古語にあることは珍しいことではありません。



とりわけオオゴマダラの飛翔の優雅さには、時を忘れる。

まるで、古代から続いてきたゆるやかな時間の中を、彼女たち(と、つい呼びたくなる)は泳いでいるかのようだ。

食性については「ゴールド!」にも書いたが、多くのチョウは食べる(つまり卵を産む)木が決まっている。そして、その木の葉ばかりを食べて育ったチョウの幼虫および成虫は、天敵(多くは鳥)にとって「まずい」味をしているというのである。

ハベルについて思うままに書いてみた。

次は、アキツ(アキヅ)について考えてみたい。



Posted by び ん at 19:15│Comments(13)
この記事へのコメント
美ら海に  舞うあやはべる  久米の島

久米島な島のカタチが
羽を休めている蝶に見える
って言うのが、
一時言われたおりましたが・・・・・。

実のところ、かなりキビシイです。

ただ、ここの島
とても、蝶が多いんです。
Posted by jun@NAZARA at 2005年11月11日 20:26
面白く読みました
ことばと文化
そして 日常目にする風景との関係
受け継がれるものと 変わってゆくもの
好きなんです こういうことを知ったり考えたりするの
山梨では お盆の間、死者は紅蛾に乗って(なって?)帰って来るらしいです
祖父もそうして 大好きな熱い一番風呂に入るため 帰ってきました
今回の記事を読んでいて 姿を変えた祖父に会った夏を 思い出しました

junさん きれいなうたですね
…覚えておこう
Posted by えふ☆ at 2005年11月11日 21:24
びんさん こんばんはっっ

うりちゃんをみつけたのは一瞬で、その後みつかりません。

いったいどこに行ったのでしょう??
Posted by みお at 2005年11月11日 23:10
>ハーベールーは死者の精霊
実体験です?その前に、母方の女性軍はかなり長命でして、母の母は「オバー」その母は「ホーバー」 
母の姉妹は「オバサン」 オバーの姉妹は「ホーバサン」

ホーバーが臨終の時「ハーベールーなって来るからね」と言ったそうです。
私は幼少のため臨終に立ち会うことは出来なかった。

ある日、庭先に飛んできた「蛾」を示し、母が「ホーバーが来ているさ~」と言った。その時初めて「ハーベールー」の話を聞いた。そのため、ハーベールーはその蛾だと長い間思っていました。

蛇足:全くの蛇足、沖縄で「ン・ナ」(朝鮮サザエ)=古語の「ミ・ナ」ではないかと思う。「ミ」は接頭辞で「ン」に変化する例はいくつか挙げられるが、定かではない。
Posted by nakama at 2005年11月12日 20:02
18世紀の平敷屋・友寄事件について、蝶にまつわる有名な伝承があります。
平敷屋朝敏が「赤虫が蝶になって飛んだら我々の遺念だと思え」という意味の辞世の琉歌を遺し、実際に彼ら一派が処刑された日には蝶が首里の空いっぱいに飛んだといいます。
ひらひらと慎ましく魂が帰ってくるようなイメージとは随分かけ離れた話です。
一人の魂につき蝶一匹じゃないのか、という素朴な疑問も感じるのですが、そういう決まりはないのでしょうかね?

……と、ちょっと自分のブログの宣伝くさいコメントをしてみました(笑)
Posted by 茶太郎 at 2005年11月13日 02:10
メンソーレーが何故主客逆転したのか?
クウワ、チュウーサは来るという意味での誘いのやりとりです。どちらも来るという方言を使用している。
行く人は主体だけを最初に目的地に転送して使用しているという感じだ。メンソーレーの挨拶も同じではないのか。サツマのエライサンに使ったのなら主客は逆転する。ソーロー、ソーレーのやりとりの沖縄的用法と考えておかしいか?沖縄人はチャービラサイを使ったのではないか。ヌルが利用することもあるハビルと語感は関係していそうでとても古い言葉じゃないか?ヤマトの侍りとウチナーのハベル。

アーケージュゥーはアーカイドゥーか?アカの場。めでたいトンボがアキズ「ツ」。
ハビルは何故ハーベールーなのか?長音化とは?
マルバイの意味はすべてあきらかという意味ですからすべての場という意味バン、バー、バイは場。
ハーはサーと同じく?が似合う音です。サキとハナから考えるとサーの現われた形。
するとハーバイールーはサーの現われた形になる。バイはヨナグニではビになる。3万年前から3母音貫徹の潜在ルールがある。脅威的な潜在力とおもいませんか?ピンザーブ人をヨナグニ人と考えた。糸満系ではない与那国人は今は400人程度。台湾も含めた超古代王国、ハビル、世界一大きい蛾がヌルの交信役になった?
ビーはビーンとなり助動詞「です。」になる。アイブ ビーン ヒア スィニッス 「ゆぬはじまい」と英語で流れても、ヤイビーン、ヤイビーンとフィーリングをあわせることができる。ビシュヌの化身ともいわれている渡る蝶は何故アサギマダラと名つけたのか、不可解なまでに鋭すぎる。沖縄通がいたのか、介入があったのか?浅葱色とは夕焼けの薄い黄色の色ではないか?アサギマダラには黄色の色はありません。琉球アサギマダラにも!ジョークをひとつ。ひとりで死んでもパタイ。フガフガタンメーの恥ずかしい新作。
Posted by ガジャン at 2005年11月13日 12:06
メンソーレーが何故主客逆転したのか?
クウワ、チュウーサは来るという意味での誘いのやりとりです。どちらも来るという方言を使用している。
行く人は主体だけを最初に目的地に転送して使用しているという感じだ。メンソーレーの挨拶も同じではないのか。サツマのエライサンに使ったのなら主客は逆転する。ソーロー、ソーレーのやりとりの沖縄的用法と考えておかしいか?沖縄人はチャービラサイを使ったのではないか。ヌルが利用することもあるハビルと語感は関係していそうでとても古い言葉じゃないか?ヤマトの侍りとウチナーのハベル。

アーケージュゥーはアーカイドゥーか?アカの場。めでたいトンボがアキズ「ツ」。
ハビルは何故ハーベールーなのか?長音化とは?
マルバイの意味はすべてあきらかという意味ですからすべての場という意味バン、バー、バイは場。
ハーはサーと同じく?が似合う音です。サキとハナから考えるとサーの現われた形。
するとハーバイールーはサーの現われた形になる。バイはヨナグニではビになる。3万年前から3母音貫徹の潜在ルールがある。脅威的な潜在力とおもいませんか?ピンザーブ人をヨナグニ人と考えた。糸満系ではない与那国人は今は400人程度。台湾も含めた超古代王国、ハビル、世界一大きい蛾がヌルの交信役になった?
ビーはビーンとなり助動詞「です。」になる。アイブ ビーン ヒア スィニッス 「ゆぬはじまい」と英語で流れても、ヤイビーン、ヤイビーンとフィーリングをあわせることができる。ビシュヌの化身ともいわれている渡る蝶は何故アサギマダラと名つけたのか、不可解なまでに鋭すぎる。沖縄通がいたのか、介入があったのか?浅葱色とは夕焼けの薄い黄色の色ではないか?アサギマダラには黄色の色はありません。琉球アサギマダラにも!ジョークをひとつ。ひとりで死んでもパタイ。フガフガタンメーの恥ずかしい新作。
Posted by ガジャン at 2005年11月13日 18:25
なぜ?二重書き込みに?
マダラ系の命名が模様に起因するのならオオゴママダラだけはちょっと無理があると思い、どうマダラと括ったのだろうという疑問が湧いたことがあったのですが、「食性」という合理があるのじゃないかと思っただけです。海岸近く「沖縄ではアルカリ土壌」の食性だからこそ「毒」を産生できるのじゃないか。ミカンの葉を食べてもはたしてそうか?と自分で問うても詮方ないこと。食性がひとつ種類、雑食でないならいかなる食も蝶にとっては生存の敵を忌避させることができるという理屈があるのか。幼虫のレベルではやられていると思うがいかがか?蛾だって目の模様を脅しに使っているのだが、あれもこれもという対策なのか?食性はひとつという原理は蛾だって同じじゃないか「自信ない」?皆醜いこわそうな幼虫です。蚕だけが蛆虫の大きなを姿をしているのは不思議です。守られた空洞にいるわけではないのに?ウンコに清純な白が動いている。深い洞察が必要です。まぁマダラはやはり模様にちなんだ命名としておきましょう。ほら!ゴマが流れているようにみえるじゃないか?

「ン」が最初ですのでイ、ウ段の崩れた音とみるのは間違っています。それならば「音」の崩れた沖縄ではないか。テキストとしては古事記のほうが優れていることになる。アマンをアマミとあてたのはヤマトのテキストです。今でも沖縄では神はカミではありません。カンです。又「漢」の1から10までが3母音で構成されていてブルブル震えたモンゴロイド「やがてはDNAまでも変えた」もイチズに音を守っていたことがわかります。ヤマトのモンゴロイドのヒフミはウとオが違うだけです。オをウにしたら3母音です。大野晋はチャンバレンの3母音説に、くやしまぎれにア、イ、ウのほか超古代には乙音オがあったとしました。くやしかっただけだということは何故甲音オがないときに乙音オがあったということができますか、いったいどんな音なのですかと問われれば「くやしかっただけです、不必要なナショナリズムでした」と素直なら白状することでしょう。ン、ンーンーでわかる人はいるのです。不立文字は音でない音があることを意味しています。高良勉氏は方言に興味があったのなら、その興味はたんなる方言ではないからこそ研究しがいがあるわけですからヤマトではないということを際立たせねばなりません。その点ではへたくそです。安易なヤマト的解釈で寂しさを紛らわせる必要はないのです。3万年の声を聞け、佇んでいるのはサンニヌ。ナンタ浜。ウチナービケーンという言葉でヤマト人が揶揄した文章がありました。最近では宮台氏、池澤夏樹氏でしょう。宮台氏は竹富の種取り祭りのことを語っていましたが、感心するところはひとつもありませんでした。私が知っている宮台氏は風俗もので「使用済みパンティーがよく売れる事態」を解説していた思い出があります。汚れ具合はいかに相場に反映するのか突っ込みたくなりました。社会学が社会と個人の相関を扱い、いかによき社会を創出するかに学問の意義がかかっているはずです。どうも彼は説明だけじゃないかと不信にかられるのです。荒廃した現場に行き自身の力、学んでいる力を試そうと思った人なのかということです。すらすら説明上手に突きつけられている解決能力の問題は、池澤夏樹氏にも言える。彼は沖縄のニライカナイ思想を非難してヤマトに避難したかのように沖縄を離れた。彼はほとんど見当違いの沖縄を捏造し「まこと」「マクトゥ」に迫る沖縄にかかわる文章を書くことができなかった。そのことは故郷にかえっても「ヤマトのまこと」として残された課題です。突っ込みがたりない。なせば成る!彼ががまんできなかった沖縄はその裏返しとして映ったのでしょう。じゃあ故郷でなせば成るヤマトのマコトを実現してください。宮台氏にもひとつの荒廃している現場で、なせば成るヤマトのマコトを、現実化して宮台氏がきてから変わった現場をぜひ報告していただきたい。それまでは口先だけの男。
Posted by ガジャン at 2005年11月13日 18:32
ガジャンさん…わかると面白そうなんですけど 難しい…
Posted by えふ☆ at 2005年11月13日 20:46
この蛾を見ての第一印象!
「不思議発見」!!
頭が下ですよね?たぶん。
頭でっかちですね(笑)
あと、ふわふわしてて気持ちよさそう☆
ふわふわ加減が可愛いような・・・。
素人の感想でスイマセン(;’3’)
Posted by ふみ at 2005年11月14日 20:31
>jun@NAZARAさん

久米島が蝶の形、ですか?
そういわれてみると、そんな気もします。
なかなか素敵な説ではないでしょうか。

たくさんの精霊たちに守られた島なのでしょうね。


>えふ☆さん

紅蛾というのは、はじめて聞きました。
地域・地方によって、じつにさまざまな伝承があるのですね。

送り火、迎え火をめざしてやって来るのであれば、たしかに蛾に乗って(蛾となって)というのは、理にかなっています。


>みおさん

うーん・・・ぼくには何とも・・・

「うりちゃんをさがせ」って、「う」と「り」をのばすと何かに似てますね。


>nakamaさん

残念ながら、ぼくはそれが誰かであるかと確認できるかたちで蝶に会ったことはありません。
そもそも、蝶に死者の霊を見る共同心性の内に生まれも育ちもしなかったので。

「ン」音。難しいですね。例の有名ななぞなぞが存在しなければ、われわれはわずか数百年前の発音が唇を閉じていたか開いていたかすら分からない。


>茶太郎さん

いえ、宣伝は大事だと思います(笑)

一羽の蝶が一つの魂と思えるのですが・・・


>ガジャンさん

いつも力のこもった長文のコメントをありがとうございます。

先回のコメントにも回答するつもりでいましたが、しばらく本職のほうに戻らないといけません。

浅黄色は薄い青色のことでですから、その名のとおりかと思います。

僭越ながら、ひとつブログを開設していただいて、さらにお説を開陳していただければ読ませていただきたいと思うものです。


>ふみさん

正解。頭が下で、頭でっかちで、ふわふわでした(笑)

いえ、ぼくも蛾方面にはまったくもって素人です。
Posted by びん at 2005年11月15日 04:51
冬でも・・・
蝶や蛾はやっぱり沖縄にたくさんいるんでしょうね。
ちょっと引きました・・・行けるかしら(-_-;)
Posted by komo at 2005年12月10日 17:17
やっぱりたくさんいる・・・と思います。
でも、いるところに行かなければ、いないわけですから。
・・・って、無意味なコメントかなぁ・・・
Posted by びん at 2005年12月10日 20:01
お返事が遅くなる場合があります。あしからず。
 
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