2005年12月31日
ありがとう
皆さん、それぞれ、ゆく年への感慨と新年への緊張を味わっている頃と思います。
5月15日に開設した「沖縄・八重山探偵団」も、7ヶ月と半、まがりなりにもつづいてきました。
このブログを訪問し、読んでくださるかたがたは、もちろんのことながら、
おコメやTバックを寄せてくださるかたがたに「おきたん」は支えられてやってきました。
その数は、つもり積もって、こんなにも。

ありがとうございます。
記事は、書き続ければふえていきますが、コメントやトラバは、そうはいかない。
参考になる情報、考えさせられる意見、ほっとするコメント、たくさんいただきました。
それらに対して、このブログが何をお返しできているかは、こころもとないのではありますが・・・
2006年も、どうぞよろしくお願いします。
皆さまにも、来年がよい年でありますように!

大晦日の空には、龍らしきものがうごめいていた。

そして、いかにも龍らしく黒雲で空を覆い尽くし
今日の夕焼けは無理かと思ったのだが・・・

あるかなきかの一瞬の夕映えをしたがえて

西の空には、不思議な生き物が踊っていたのだ。
2005年12月31日
びん@沖縄八重山探偵団
5月15日に開設した「沖縄・八重山探偵団」も、7ヶ月と半、まがりなりにもつづいてきました。
このブログを訪問し、読んでくださるかたがたは、もちろんのことながら、
おコメやTバックを寄せてくださるかたがたに「おきたん」は支えられてやってきました。
その数は、つもり積もって、こんなにも。

ありがとうございます。
記事は、書き続ければふえていきますが、コメントやトラバは、そうはいかない。
参考になる情報、考えさせられる意見、ほっとするコメント、たくさんいただきました。
それらに対して、このブログが何をお返しできているかは、こころもとないのではありますが・・・
2006年も、どうぞよろしくお願いします。
皆さまにも、来年がよい年でありますように!

大晦日の空には、龍らしきものがうごめいていた。

そして、いかにも龍らしく黒雲で空を覆い尽くし
今日の夕焼けは無理かと思ったのだが・・・

あるかなきかの一瞬の夕映えをしたがえて

西の空には、不思議な生き物が踊っていたのだ。
2005年12月31日
びん@沖縄八重山探偵団
2005年12月31日
POP STAR!・・・?
源氏パイさんからいただいた年末の到来もの(あ!ふつーお歳暮って言うよな・大汗)、底をついてきた。
残ったのはスターフルーツ。
源氏パイ画伯からの手紙には、サラダにして食べてねと書いてあったが、ぼくらはまだなかなか果物を野菜として食べる習慣が身につかない。
野菜として食べるパパイヤなんか、最初はびっくりする。
だから・・・熟すのを待ったのだ。

ひとつを除いて、いい色に熟したので、食べてみた。
うーん・・・梨だ!
で・・・最後に苦味がくる。
この苦味、なにかに似ている。
そうだ!ゴーヤーを思い出すのだ!
最初は、ちょっときついけど、だんだんクセになってくる。
そっかぁ。
やっぱし、スターフルーツは野菜として食べるべきなんや。
スタフル(略しました・汗)チャンプルーなんて、どうやろか?
・・・と気がついた時には、子どもらが砂糖ふりかけて食べてました(苦笑)

フラッシュを焚いて撮ってみた。
キラキラ光って、見映えがする。
やっぱ、STAR は、ちがうね!(^-^;
残ったのはスターフルーツ。
源氏パイ画伯からの手紙には、サラダにして食べてねと書いてあったが、ぼくらはまだなかなか果物を野菜として食べる習慣が身につかない。
野菜として食べるパパイヤなんか、最初はびっくりする。
だから・・・熟すのを待ったのだ。

ひとつを除いて、いい色に熟したので、食べてみた。
うーん・・・梨だ!
で・・・最後に苦味がくる。
この苦味、なにかに似ている。
そうだ!ゴーヤーを思い出すのだ!
最初は、ちょっときついけど、だんだんクセになってくる。
そっかぁ。
やっぱし、スターフルーツは野菜として食べるべきなんや。
スタフル(略しました・汗)チャンプルーなんて、どうやろか?
・・・と気がついた時には、子どもらが砂糖ふりかけて食べてました(苦笑)

フラッシュを焚いて撮ってみた。
キラキラ光って、見映えがする。
やっぱ、STAR は、ちがうね!(^-^;
2005年12月31日
2005年最後の・・・
夜明け!

って、ちょっとヒネクレテるやろか?(笑)
でも、いいじゃんねぇ。

ちゃんと、6時台に黒 → ダークグレー → ダークブルー → ブルーを観察しましたから、ryuさん!
(粟国島情報どうもありがとー!)
でも、大阪の朝日は、夜明けからだいーーぶたって生駒山から出てくるので、それまでは待てませんでしたけど・・・寒いし眠いし(^-^д

(こんな感じ。これは今日の朝日ではないのですが・・・)
さてさて、明日の初日の出、どうでしょうか?
天気予報では全国の大部分が曇りで、あろうことか沖縄が雨らしいですけど、せっかくこうやって全国(海外まで)つながってるんだから、どこかで見られれば、いいような気もする。
どこで見ても、同じてぃーだなんだしね!(てーげー?苦笑)

って、ちょっとヒネクレテるやろか?(笑)
でも、いいじゃんねぇ。

ちゃんと、6時台に黒 → ダークグレー → ダークブルー → ブルーを観察しましたから、ryuさん!
(粟国島情報どうもありがとー!)
でも、大阪の朝日は、夜明けからだいーーぶたって生駒山から出てくるので、それまでは待てませんでしたけど・・・寒いし眠いし(^-^д

(こんな感じ。これは今日の朝日ではないのですが・・・)
さてさて、明日の初日の出、どうでしょうか?
天気予報では全国の大部分が曇りで、あろうことか沖縄が雨らしいですけど、せっかくこうやって全国(海外まで)つながってるんだから、どこかで見られれば、いいような気もする。
どこで見ても、同じてぃーだなんだしね!(てーげー?苦笑)
2005年12月31日
MY ALBUM
最近あちこちで、マイアルバムを見かける。
やってみよう。
マ イ ア ル バ ム と。・・・ちょっと♪マイアヒー みたいだな(汗)
↑ これだけでいいのかな?

うわー
なんかこのブログ、むちゃくちゃやわ。
統一性、ゼロやんか(ナイアガラ滝汗)
でも・・・
ちょっとおもしろいかも(笑)
やってみよう。
マ イ ア ル バ ム と。・・・ちょっと♪マイアヒー みたいだな(汗)
↑ これだけでいいのかな?

うわー
なんかこのブログ、むちゃくちゃやわ。
統一性、ゼロやんか(ナイアガラ滝汗)
でも・・・
ちょっとおもしろいかも(笑)
2005年12月31日
THANKS! PICKUP
12月19日(月)にPICK UPしていただいた「沖縄・八重山探偵団」であるが・・・
本日、大晦日にTOP PAGEから消える(と思われる)。

せっかく取り上げていただいたのだから、なにかレスポンスしないといけないなと思いつつ今日まで来てしまった。
というのも、じつは19日は、17~18日の香川講演旅行(というほどのものでもないが、1年間の疲れがたまっていたのでかなりしんどかった。最近しんどかったばかり言っているような気がスルガの国に茶の香り・汗)の余波で、1時間目の講義をやったあと、ず~~っと寝ていたので、「今日のPICKUPBLOG」のコメントを、一瞬しか見ていないのであった。
その一瞬というのは20日の朝10時すぎのことで、ぼくはその日が「今日のPICKUPBLOG!」の「今日」だと思ったのだ。
で、「おー!」などと口走りつつも、よく読まないまま自分のブログを確認したりして、もう一度TOPに帰った10時30分頃には、すでにコメントは消えていた(涙)
その一瞬で、かろうじて記憶に残ったのは、「びんさんのブログ」というフレーズと、「知的」という一語。
もちろんこれは過褒(ほめすぎ)であって、リップサービスの一環であろうけれども、とりわけ19日頃には、ずいぶん知的とは離れた記事が続いていたので(はいはい、確認しなくっていいよ~)、内心、ちょいと心ぐるしかったのでもあった。
で、まだあと1週間、講義と学内業務が残っていたので、なかなか思うように記事のエントリーも出来かねた。
そのようなわけで、何も反応できないまま、だらだらと来てしまったのだ。
正直、知的なブログでありたいとは思う。とはいえ、なかなかうまくいかない。・・・絶対的にうまくいかない。
てぃーだには情にあふれたブログが多いので、出来れば知でいきたいとは思うのだ。
しかし、じつに中途半端。情報としても、読み物としても。そして、もっと知的なブログは、他にたくさんある。
そんな気持ちもあったので、年末になって、ちょいと「知的」を意識したのではあった。
しかし、おのずから限界もあり、キャラクターもあり、かくのごとし(苦笑)
せめて、取り上げていただいたお礼だけでも述べて、今年を終わりたいと思う。
とはいえ、まだきっとこの人エントリーしますので、「よいお年を!」は、もうちょっとあとに(^о^>
【追記】
え゛?
まだ消えてないし( ̄о ̄;㍑
フェイント・・・・・・(汗) ただ今、31日AM11:30
本日、大晦日にTOP PAGEから消える(と思われる)。

せっかく取り上げていただいたのだから、なにかレスポンスしないといけないなと思いつつ今日まで来てしまった。
というのも、じつは19日は、17~18日の香川講演旅行(というほどのものでもないが、1年間の疲れがたまっていたのでかなりしんどかった。最近しんどかったばかり言っているような気がスルガの国に茶の香り・汗)の余波で、1時間目の講義をやったあと、ず~~っと寝ていたので、「今日のPICKUPBLOG」のコメントを、一瞬しか見ていないのであった。
その一瞬というのは20日の朝10時すぎのことで、ぼくはその日が「今日のPICKUPBLOG!」の「今日」だと思ったのだ。
で、「おー!」などと口走りつつも、よく読まないまま自分のブログを確認したりして、もう一度TOPに帰った10時30分頃には、すでにコメントは消えていた(涙)
その一瞬で、かろうじて記憶に残ったのは、「びんさんのブログ」というフレーズと、「知的」という一語。
もちろんこれは過褒(ほめすぎ)であって、リップサービスの一環であろうけれども、とりわけ19日頃には、ずいぶん知的とは離れた記事が続いていたので(はいはい、確認しなくっていいよ~)、内心、ちょいと心ぐるしかったのでもあった。
で、まだあと1週間、講義と学内業務が残っていたので、なかなか思うように記事のエントリーも出来かねた。
そのようなわけで、何も反応できないまま、だらだらと来てしまったのだ。
正直、知的なブログでありたいとは思う。とはいえ、なかなかうまくいかない。・・・絶対的にうまくいかない。
てぃーだには情にあふれたブログが多いので、出来れば知でいきたいとは思うのだ。
しかし、じつに中途半端。情報としても、読み物としても。そして、もっと知的なブログは、他にたくさんある。
そんな気持ちもあったので、年末になって、ちょいと「知的」を意識したのではあった。
しかし、おのずから限界もあり、キャラクターもあり、かくのごとし(苦笑)
せめて、取り上げていただいたお礼だけでも述べて、今年を終わりたいと思う。
とはいえ、まだきっとこの人エントリーしますので、「よいお年を!」は、もうちょっとあとに(^о^>
【追記】
え゛?
まだ消えてないし( ̄о ̄;㍑
フェイント・・・・・・(汗) ただ今、31日AM11:30
2005年12月30日
龍の国を思う
あいかわらず、空ばかり見ている。
中島みゆきは、人は空ばかり見てる(もっと地上を見ろ)と言ったけれど、人は地上を見るのに飽きて「プロジェクトX」は終わってしまったのだから、空ばかり見ていてもかまうまい。
すると、ふと、母親の龍から生まれたばかりの子龍がいたように思ったのだ。

今年の3月、香港に行った。
香港(ホンコンは現地の言葉。現代中国語読みは「シャオカン」)は、大陸側の九龍(クーロン、ガオロン、カオルーンなど)半島と、香港島から成り立っているが、ぼくは、九龍半島の先端にあるホテルに泊まった。

あわよくば、九龍半島と香港島の間の100万ドルの夜景を部屋から見ようとの魂胆であったが、前のホテルがどでかくて、あえなくその野望はついえた。・・・いいんだよ。ちょっと歩いたら見えたんだから。

日本にも、たとえば九頭竜川(くずりゅうがわ)という川がある。天竜川という川もある。
しかし、半島を龍に見立てた地名は、あっただろうか?
つまり、日本では川を龍に見立て、大陸中国では半島を龍に見立てた(それぞれ、少なくともそのような例がある)ということだ。
さもありなん。中国の川、とくに文明が栄えるような地域の側を流れる川は、川幅が広すぎて龍に見立てようにも見立て切れない。
その代わり、中国では雲が、あるいは稲妻が、龍に見立てられた。これは日本と同じだ。

1年間のことを思うと、最初の旅が思い浮かんだ。
その前の1年間、旅などと言える体調ではなく、ほんとうに行けるかどうか迷った末の旅立ちだったから、余計に印象ぶかいのかもしれない。
中島みゆきは、人は空ばかり見てる(もっと地上を見ろ)と言ったけれど、人は地上を見るのに飽きて「プロジェクトX」は終わってしまったのだから、空ばかり見ていてもかまうまい。
すると、ふと、母親の龍から生まれたばかりの子龍がいたように思ったのだ。

今年の3月、香港に行った。
香港(ホンコンは現地の言葉。現代中国語読みは「シャオカン」)は、大陸側の九龍(クーロン、ガオロン、カオルーンなど)半島と、香港島から成り立っているが、ぼくは、九龍半島の先端にあるホテルに泊まった。

あわよくば、九龍半島と香港島の間の100万ドルの夜景を部屋から見ようとの魂胆であったが、前のホテルがどでかくて、あえなくその野望はついえた。・・・いいんだよ。ちょっと歩いたら見えたんだから。

日本にも、たとえば九頭竜川(くずりゅうがわ)という川がある。天竜川という川もある。
しかし、半島を龍に見立てた地名は、あっただろうか?
つまり、日本では川を龍に見立て、大陸中国では半島を龍に見立てた(それぞれ、少なくともそのような例がある)ということだ。
さもありなん。中国の川、とくに文明が栄えるような地域の側を流れる川は、川幅が広すぎて龍に見立てようにも見立て切れない。
その代わり、中国では雲が、あるいは稲妻が、龍に見立てられた。これは日本と同じだ。

1年間のことを思うと、最初の旅が思い浮かんだ。
その前の1年間、旅などと言える体調ではなく、ほんとうに行けるかどうか迷った末の旅立ちだったから、余計に印象ぶかいのかもしれない。
2005年12月30日
56
しかし、56艘にものぼるたくさんの船が大浦湾で反対行動をする(参照1・参照2・参照3)などということは、座り込みのはじまった去年の4月には考えることもできなかった。いや、半年前でも考えられなかっただろう。
その意味で、地元の頭越しに日米両政府の間で合意された米軍再編協議の一環としての妥協案に対して、沖縄県議会が反対決議を議決するなどといった最近の動きは歓迎したい。
しかし、大浦湾での基地建設反対アピールの記事を目にするにつけ、もはやそれは「辺野古」だけの問題なのではなくなっているのだと感じる。
そしてまた、いつしか新たな米軍基地の日本国内新設案は消えて、「辺野古」という地名も忘れ去られる日が来るはずだ。
しかし、それでもなお、「辺野古」という地名は、ひとつの象徴として語り継がれることだろう。
昨年(2004年)の4月19日にはじまり、すでに600日を超えた「座り込み」が、いかに意義ぶかい市民運動であるかということは、強調してしすぎることはない。
さまざまに虚実ひっくるめた妨害言説に晒される中で、ぼくはぼくとして1997年以来見続けてきた「辺野古」を見てきた。いつかそれを発表できる日があるはずだと思っている。
ここまで、「辺野古」という文字を使った「沖縄・八重山探偵団」の記事は13。全体の2%にも満たない。
来年(とはいえ、仕事が山積みなので、しばらく休むことになるはずなのだが)は、もう少し集中して考えてみたいテーマである。
さて、23日のアピールに参加した56艘という船の数から、ぼくは即座に名護市庁舎の56体のシーサーを思い浮かべた。
名護市内の56の地区の数からきたとも、昭和56年につくられたからとも言われている56体のシーサーであるが(ぼくの知る限り、ここに一番たくさんの画像が載っている。せっかくなら56体全部あればもっといいのだけれど・・・全部は難しいかな)、
もう、ずーっと前にBBSで質問して回答をくださった、沖縄でバスガイドをされていたというナオミ・キャンベル(缶)さん(ちょうど今日のPICK UP BLOGだった・・・)の説が説得力があると思ったのだが、名護市の行政区は、70年8月の市制開始以来13行政区が続いているという。
ただし、合併前の名護(町)・屋部(村)・屋我地(村)・羽地(村)・久志(村)を基準に行政区をかぞえると、たしかにその数は55になるのだ。
えっと、私たちの説明では
名護の行政区が55でその数のシーサーを沖縄の職人さんに作ってもらって、もともとあった名護市役所にあったシーサーを一つ。
で、合計56体置かれているという説明をしていました。
たぶん、正確な情報だと思います(笑)
しかし、「もともとあった名護市役所にあったシーサーを一つ」というのが、いまひとつ腑に落ちにくいのだ(たぶん、ぼくがスナオじゃないからだろう)。
名護市役所のある港地区だって、もちろん55の行政区の中に入っているのであり、そうすると港地区ばかりが2つ重なってしまう。
本来、56体ものシーサーを置くという思想自体が、じつにデリケートなものであり(と、ぼくは思う)、そのような行為の背景には、それに見合うだけの根拠があると考えるのだ。
もちろん、その根拠は「昭和56年」でも、「56の字」でも、「55の行政区+1」でもかまわないのかもしれない。
しかし、もっと複合的で深遠な、未来永劫にわたって名護という市を災厄から守り抜くための、いわば「祈り」の総量に見合うだけの根拠があってしかるべきだと、ぼくなどは考えるのだ。
たとえば、新しく建てた自分の家に、なにか守り神を置くとする。そう考えてみたらどうだろうか?
「起源」の時間、はじまりの時を刻み付けるというのは、考えられることだろう。しばしば見かける「since1970」のようなエンブレムに代表されるように。
だから、昭和56年という「起源」の年を56体のシーサーによって永遠に刻みつけたということは、大いに考えられる。
そして、新しく名護市という自治体の中で互いに手を結んだすべての地域の人々を、災厄・災難から守るという意思が、56体のシーサーに込められたということも、やはり大いに考えられることであった。
行政区が55であっても、そもそもシーサー(石獅子・屋根獅子)が「1対」でより大きなパワーを発揮するものである以上、55ではなく、56という偶数が求められたとしても不思議ではない。
その場合には、「偶数にする」ということが根拠なのであるから、他の根拠がいささか以上に付加的(つけたしの感じ)がしたとしても、むしろそれが自然なのである。
名護市役所には、何度も行った。
市議会の傍聴をしたこともあるし、名護サミットのインタビューに赴いたこともある。
しかし、「56体のシーサー」については、まだ聞いていないのだ。
それは、もし大きな根拠があるのだとすれば、一見で行って教えてもらえることはないだろうという理由がひとつ。
また、1981年(昭和56年)当時、市の中枢にいた人は、現在の市役所にはもういないだろうと思われるという理由がひとつ。
おそらく名護市の職員の中にも、ここまで述べてきたような3つの説を、知っている人がいるに違いない。
しかし、ぼくはまだ、「その先」が知りたいのだ。それが存在するならば。
そして、ぼくは、それが存在すると信じている。
であれば、それなりの日程を組み、準備を整えて、調査に出かけるべきだと思う。
もちろん、それがぼくである必要はない。いますぐにでも、調査に赴くことのできる人がいてくれるのであれば、その人に調査してほしいと思う。なんのために?・・・「真実」のために!
たくさんの資料、たくさんの人を、一足違いで失ってきた経験がそう思わせる。
沖縄で「56」といえば・・・
浦添線のバスの路線番号。
今帰仁の局番。
今年達成した過去最高の8月の入域観光客数(参照)
「沖縄 56」で検索していたら、こんなシーサーが現れておどろいた。・・・琉球村?
56という数字は、完全数28の倍。(完全数は、小川洋子の『博士の愛した数式』で広く知られるようになった。江夏豊の背番号であったということも)
このままつづけると、だんだん56(ゴロ)合わせになっていくような気がするので、このくらいで(苦笑)
その意味で、地元の頭越しに日米両政府の間で合意された米軍再編協議の一環としての妥協案に対して、沖縄県議会が反対決議を議決するなどといった最近の動きは歓迎したい。
しかし、大浦湾での基地建設反対アピールの記事を目にするにつけ、もはやそれは「辺野古」だけの問題なのではなくなっているのだと感じる。
そしてまた、いつしか新たな米軍基地の日本国内新設案は消えて、「辺野古」という地名も忘れ去られる日が来るはずだ。
しかし、それでもなお、「辺野古」という地名は、ひとつの象徴として語り継がれることだろう。
昨年(2004年)の4月19日にはじまり、すでに600日を超えた「座り込み」が、いかに意義ぶかい市民運動であるかということは、強調してしすぎることはない。
さまざまに虚実ひっくるめた妨害言説に晒される中で、ぼくはぼくとして1997年以来見続けてきた「辺野古」を見てきた。いつかそれを発表できる日があるはずだと思っている。
ここまで、「辺野古」という文字を使った「沖縄・八重山探偵団」の記事は13。全体の2%にも満たない。
来年(とはいえ、仕事が山積みなので、しばらく休むことになるはずなのだが)は、もう少し集中して考えてみたいテーマである。
さて、23日のアピールに参加した56艘という船の数から、ぼくは即座に名護市庁舎の56体のシーサーを思い浮かべた。
名護市内の56の地区の数からきたとも、昭和56年につくられたからとも言われている56体のシーサーであるが(ぼくの知る限り、ここに一番たくさんの画像が載っている。せっかくなら56体全部あればもっといいのだけれど・・・全部は難しいかな)、
もう、ずーっと前にBBSで質問して回答をくださった、沖縄でバスガイドをされていたというナオミ・キャンベル(缶)さん(ちょうど今日のPICK UP BLOGだった・・・)の説が説得力があると思ったのだが、名護市の行政区は、70年8月の市制開始以来13行政区が続いているという。
ただし、合併前の名護(町)・屋部(村)・屋我地(村)・羽地(村)・久志(村)を基準に行政区をかぞえると、たしかにその数は55になるのだ。
えっと、私たちの説明では
名護の行政区が55でその数のシーサーを沖縄の職人さんに作ってもらって、もともとあった名護市役所にあったシーサーを一つ。
で、合計56体置かれているという説明をしていました。
たぶん、正確な情報だと思います(笑)
しかし、「もともとあった名護市役所にあったシーサーを一つ」というのが、いまひとつ腑に落ちにくいのだ(たぶん、ぼくがスナオじゃないからだろう)。
名護市役所のある港地区だって、もちろん55の行政区の中に入っているのであり、そうすると港地区ばかりが2つ重なってしまう。
本来、56体ものシーサーを置くという思想自体が、じつにデリケートなものであり(と、ぼくは思う)、そのような行為の背景には、それに見合うだけの根拠があると考えるのだ。
もちろん、その根拠は「昭和56年」でも、「56の字」でも、「55の行政区+1」でもかまわないのかもしれない。
しかし、もっと複合的で深遠な、未来永劫にわたって名護という市を災厄から守り抜くための、いわば「祈り」の総量に見合うだけの根拠があってしかるべきだと、ぼくなどは考えるのだ。
たとえば、新しく建てた自分の家に、なにか守り神を置くとする。そう考えてみたらどうだろうか?
「起源」の時間、はじまりの時を刻み付けるというのは、考えられることだろう。しばしば見かける「since1970」のようなエンブレムに代表されるように。
だから、昭和56年という「起源」の年を56体のシーサーによって永遠に刻みつけたということは、大いに考えられる。
そして、新しく名護市という自治体の中で互いに手を結んだすべての地域の人々を、災厄・災難から守るという意思が、56体のシーサーに込められたということも、やはり大いに考えられることであった。
行政区が55であっても、そもそもシーサー(石獅子・屋根獅子)が「1対」でより大きなパワーを発揮するものである以上、55ではなく、56という偶数が求められたとしても不思議ではない。
その場合には、「偶数にする」ということが根拠なのであるから、他の根拠がいささか以上に付加的(つけたしの感じ)がしたとしても、むしろそれが自然なのである。
名護市役所には、何度も行った。
市議会の傍聴をしたこともあるし、名護サミットのインタビューに赴いたこともある。
しかし、「56体のシーサー」については、まだ聞いていないのだ。
それは、もし大きな根拠があるのだとすれば、一見で行って教えてもらえることはないだろうという理由がひとつ。
また、1981年(昭和56年)当時、市の中枢にいた人は、現在の市役所にはもういないだろうと思われるという理由がひとつ。
おそらく名護市の職員の中にも、ここまで述べてきたような3つの説を、知っている人がいるに違いない。
しかし、ぼくはまだ、「その先」が知りたいのだ。それが存在するならば。
そして、ぼくは、それが存在すると信じている。
であれば、それなりの日程を組み、準備を整えて、調査に出かけるべきだと思う。
もちろん、それがぼくである必要はない。いますぐにでも、調査に赴くことのできる人がいてくれるのであれば、その人に調査してほしいと思う。なんのために?・・・「真実」のために!
たくさんの資料、たくさんの人を、一足違いで失ってきた経験がそう思わせる。
沖縄で「56」といえば・・・
浦添線のバスの路線番号。
今帰仁の局番。
今年達成した過去最高の8月の入域観光客数(参照)
「沖縄 56」で検索していたら、こんなシーサーが現れておどろいた。・・・琉球村?
56という数字は、完全数28の倍。(完全数は、小川洋子の『博士の愛した数式』で広く知られるようになった。江夏豊の背番号であったということも)
このままつづけると、だんだん56(ゴロ)合わせになっていくような気がするので、このくらいで(苦笑)
2005年12月30日
1枚だけの写真
6月の沖縄旅行、辺野古には3時間ほどいた。
6月24日。県立博物館から中グスク跡に回り、中村家住宅を経て向かったのだ。
6月22日の到着日に行けば、帰着日まで毎日通うことになる可能性があった。実際、そのような形で沖縄滞在期間を過ごしたこともあったし、それはぼく自身の選択にもとづいたことだった。
ただし、6月には他に目的があったので、それを果たしてから赴いたのだ。そこに少なからぬ負い目があったことは否定できない。
2004年の4月19日(長期の入院をはじめた日なので忘れない)にはじまった「座り込み」のあいだぼくがしたことといえば、退院・自宅療養後にPCを通して辺野古からの報告を読み、そして何度かメッセージとカンパを送った程度。
何度も、「行きたい」「行くべきだ」と思っているあいだに、「座り込み」をめぐる報道から受けるノイズが拡大し、いったい何が真実で何が虚偽なのかがわからなくなってきた。
・・・「自分への言いわけ」なのだけれど。
6月25日、午後。
辺野古に到着したぼくたちを、見慣れた顔が迎えてくれた。開口一番、入院されたという話を伺ったので驚いたが、もうだいじょうぶだということで安心した。
ぼくも、入院のことなどがあって、長く訪問できなかったことをわびた。
いつも通り、笑顔で、そんなことは気にしなくていいと言ってくださった。
防衛施設庁の出すボーリング調査のためのボートが、いつもの引き上げ時刻になっても引き上げず、海上で緊迫した追跡が行われた。
そのため、カヌーやボートが「テント」の前に帰ってきたのは、通常より1時間も遅れてのことだった。
そのあいだ、ぼくと中屋ヒロキは、テントに残っていたかたがたと他愛もない話をし(はじめて辺野古に行った中屋は、ずいぶん真摯なレクチャーを受けたらしい)、海上に出ていた人々を拍手で迎える輪のいちばん外にそっと加わり、その後しばらく内地からきている人と話をした。
そのあいだ、ぼくの心には違和感と呼ぶべき感情が芽生えたまま、最後まで消えることはなかった。
その違和感は、97年に辺野古を訪れて以来、常に「運動」の中心となってきた年配のかたがた、何人かは顔を見知ったかたがたが(多くは、その場におられなかった)、あまりうれしそうではなかった所から生じていたのだと思う。
もちろん、うれしいはずなどない。しかし、8年間のうちには、もっとひどい状態のときもあり(反対運動に加わるかたがたの平均年齢が70歳を越えたときもある)、それでも「小屋」のお年寄りたちは生き生きとしておられた。こちらが勇気付けられるほど、あっけらかんと笑っていた。
それは、「自分たちの手で、かけがえのない運動をしている」という充足感ゆえではなかったか?

【辺野古の中心街に咲き誇っていた鳳凰木。
ホウオウボクという名は、るぅ~るぅ~さんに教えてもらったのだった。】
実際、今月(2005年12月)の23日には56艘にものぼる船やカヌーによって、米軍ヘリポート建設反対のアピールが行われ(参照1・参照2)、沖縄県議会で米軍再編に向けての日米合意に反対する決議が議決されるなどのことは、「運動」の拡大によって可能となったことどもであろう。
しかし、ぼくには、それまで辺野古に住む人々を中心におこなわれていた「運動」が、2年ほど見ないあいだに整然とシステム化され、いままで見たことのない若い人たち中心におこなわれていることに、うまくなじめなかった。
おそらく、そのような気持ちが態度に出たのだろう。内地から来ているというひとりが、ぼくに向かって「平和学習」にやってくる学校関係者の能天気さを話しだした。
すべてを書くつもりはないけれど、おおかたは前回の記事に書いたようなことだ。
大阪でも、辺野古支援の活動は毎週おこなわれている。しかし、事実としてぼくは、一度も参加していない。
なぜ参加しないのか、それを言い始めればキリがない。そして、言えばすべて言いわけになるだろう。
・・・さまざまな気持ちが沸いて、うまくコトバにすることができない。
今回、辺野古の海を写すことができなかった。そんなぼくの代わりに、中屋ヒロキが一枚だけ撮ってくれていた。
その写真は、保存しておこうと思う。これまでたくさん撮りためた、辺野古の海の他の写真と一緒に。
6月24日。県立博物館から中グスク跡に回り、中村家住宅を経て向かったのだ。
6月22日の到着日に行けば、帰着日まで毎日通うことになる可能性があった。実際、そのような形で沖縄滞在期間を過ごしたこともあったし、それはぼく自身の選択にもとづいたことだった。
ただし、6月には他に目的があったので、それを果たしてから赴いたのだ。そこに少なからぬ負い目があったことは否定できない。
2004年の4月19日(長期の入院をはじめた日なので忘れない)にはじまった「座り込み」のあいだぼくがしたことといえば、退院・自宅療養後にPCを通して辺野古からの報告を読み、そして何度かメッセージとカンパを送った程度。
何度も、「行きたい」「行くべきだ」と思っているあいだに、「座り込み」をめぐる報道から受けるノイズが拡大し、いったい何が真実で何が虚偽なのかがわからなくなってきた。
・・・「自分への言いわけ」なのだけれど。
6月25日、午後。
辺野古に到着したぼくたちを、見慣れた顔が迎えてくれた。開口一番、入院されたという話を伺ったので驚いたが、もうだいじょうぶだということで安心した。
ぼくも、入院のことなどがあって、長く訪問できなかったことをわびた。
いつも通り、笑顔で、そんなことは気にしなくていいと言ってくださった。
防衛施設庁の出すボーリング調査のためのボートが、いつもの引き上げ時刻になっても引き上げず、海上で緊迫した追跡が行われた。
そのため、カヌーやボートが「テント」の前に帰ってきたのは、通常より1時間も遅れてのことだった。
そのあいだ、ぼくと中屋ヒロキは、テントに残っていたかたがたと他愛もない話をし(はじめて辺野古に行った中屋は、ずいぶん真摯なレクチャーを受けたらしい)、海上に出ていた人々を拍手で迎える輪のいちばん外にそっと加わり、その後しばらく内地からきている人と話をした。
そのあいだ、ぼくの心には違和感と呼ぶべき感情が芽生えたまま、最後まで消えることはなかった。
その違和感は、97年に辺野古を訪れて以来、常に「運動」の中心となってきた年配のかたがた、何人かは顔を見知ったかたがたが(多くは、その場におられなかった)、あまりうれしそうではなかった所から生じていたのだと思う。
もちろん、うれしいはずなどない。しかし、8年間のうちには、もっとひどい状態のときもあり(反対運動に加わるかたがたの平均年齢が70歳を越えたときもある)、それでも「小屋」のお年寄りたちは生き生きとしておられた。こちらが勇気付けられるほど、あっけらかんと笑っていた。
それは、「自分たちの手で、かけがえのない運動をしている」という充足感ゆえではなかったか?

【辺野古の中心街に咲き誇っていた鳳凰木。
ホウオウボクという名は、るぅ~るぅ~さんに教えてもらったのだった。】
実際、今月(2005年12月)の23日には56艘にものぼる船やカヌーによって、米軍ヘリポート建設反対のアピールが行われ(参照1・参照2)、沖縄県議会で米軍再編に向けての日米合意に反対する決議が議決されるなどのことは、「運動」の拡大によって可能となったことどもであろう。
しかし、ぼくには、それまで辺野古に住む人々を中心におこなわれていた「運動」が、2年ほど見ないあいだに整然とシステム化され、いままで見たことのない若い人たち中心におこなわれていることに、うまくなじめなかった。
おそらく、そのような気持ちが態度に出たのだろう。内地から来ているというひとりが、ぼくに向かって「平和学習」にやってくる学校関係者の能天気さを話しだした。
すべてを書くつもりはないけれど、おおかたは前回の記事に書いたようなことだ。
大阪でも、辺野古支援の活動は毎週おこなわれている。しかし、事実としてぼくは、一度も参加していない。
なぜ参加しないのか、それを言い始めればキリがない。そして、言えばすべて言いわけになるだろう。
・・・さまざまな気持ちが沸いて、うまくコトバにすることができない。
今回、辺野古の海を写すことができなかった。そんなぼくの代わりに、中屋ヒロキが一枚だけ撮ってくれていた。
その写真は、保存しておこうと思う。これまでたくさん撮りためた、辺野古の海の他の写真と一緒に。
2005年12月30日
発見その3・・・沖縄を返せ?
源氏パイさんから送っていただいた到来物の中に
「沖縄タイムス」が入っていた。12月22日(木)朝刊。

隅から隅まで読んでしまいました思わず。
以前は沖縄から送ってもらっていたこともあるけれど
最近はネットで済ませていたから、とても得した気分。
やっぱりこの雰囲気は、生の新聞でしか味わえない。
その中に・・・
上里賢一さん(琉大教授)の文章があった。
(「沖縄から見る 「反日」と「反中」の衝突 1」)
4月18日の「沖タイ」朝刊に載った一枚のビラの写真から話がはじまっている。
中国上海市で4月16日に起きた反日デモの際に配られたビラである。
「還我(琉球を返せ) 還我沖縄(沖縄を返せ)」
つまり、沖縄(中国語では「琉球」)を中国に返せ、というビラなのである。
沖縄のわれわれに断りもなく、「沖縄を返せ」とか、「沖縄の帰属問題は未確定だ」と言われて(中略)当事者として何かコメントを付けておかないと、後々何だかやっかいなことになりそうで、あえて私見を述べることにした。
と言われる上里さんの論説が、このあとどのようにつづくかはわからないからコメントは差し控えておく。
ただしかし、領土問題に関して歴史をあなぐって行くのであれば、このような主張も当然「アリ」だ。ぼくは、そう思う。
実際に、数の上で少数派だったとはいえ、中国に帰属することを望んだ沖縄人は歴史上に存在した。
ただ、そのような「歴史」を外交上のカードに用いるために、恣意的に拡大解釈をすることは、歴史の(先人のかけがえのない「生」の積み重ねの)果てに生きているわれわれの誰にも許されていないことだろう。

おどろいたのは、同じ日に読んだ舟橋洋一さんの渾身のリポート『青い海をもとめて』(朝日新聞社、2005年)に、同じ話題が出てきたことだ(156ページ)。
中国政府は、沖縄は日本の主権下にあるとの立場である。毛沢東(彼もいま再び『マオ』によって注目を浴びている)は、米国は沖縄を一刻も早く日本に返せ、と主張していた。
たしかに。ただし、上里氏も船橋氏も言うように、台湾の国民党政府は「沖縄の帰属未解決」という立場をとり続けている。
つまり、「沖縄を返せ」ということである。
上里さんの言う、当事者である沖縄住民の意識が何よりも優先されるべきであるという意見には一定の説得力がある。
しかし、それがすべてに優先されるのであれば、たとえば北方領土の問題を日本人が議論することは無意味であり、それ以前に住民に失礼だということになるのではないか。
今や世界に2つしかなくなった分断国家の2つともを抱え(南北朝鮮、中国と台湾)、3つの国境紛争を抱えた(日本とロシア、日本と中国、日本と韓国)われわれの住む東アジアが、この2005年という年に、まがりなりにも共同体へと向けて歩き出したことを、ぼくは何よりも重視したい。
ファナティック(熱狂的)な反応には、まずなによりも冷静になること。
それもまた、現在の世界を混迷の淵に追いやったイスラム原理主義とアメリカ覇権主義の対立が、多大な犠牲のうえに教えてくれていることではないか。
「沖縄タイムス」が入っていた。12月22日(木)朝刊。

隅から隅まで読んでしまいました思わず。
以前は沖縄から送ってもらっていたこともあるけれど
最近はネットで済ませていたから、とても得した気分。
やっぱりこの雰囲気は、生の新聞でしか味わえない。
その中に・・・
上里賢一さん(琉大教授)の文章があった。
(「沖縄から見る 「反日」と「反中」の衝突 1」)
4月18日の「沖タイ」朝刊に載った一枚のビラの写真から話がはじまっている。
中国上海市で4月16日に起きた反日デモの際に配られたビラである。
「還我(琉球を返せ) 還我沖縄(沖縄を返せ)」
つまり、沖縄(中国語では「琉球」)を中国に返せ、というビラなのである。
沖縄のわれわれに断りもなく、「沖縄を返せ」とか、「沖縄の帰属問題は未確定だ」と言われて(中略)当事者として何かコメントを付けておかないと、後々何だかやっかいなことになりそうで、あえて私見を述べることにした。
と言われる上里さんの論説が、このあとどのようにつづくかはわからないからコメントは差し控えておく。
ただしかし、領土問題に関して歴史をあなぐって行くのであれば、このような主張も当然「アリ」だ。ぼくは、そう思う。
実際に、数の上で少数派だったとはいえ、中国に帰属することを望んだ沖縄人は歴史上に存在した。
ただ、そのような「歴史」を外交上のカードに用いるために、恣意的に拡大解釈をすることは、歴史の(先人のかけがえのない「生」の積み重ねの)果てに生きているわれわれの誰にも許されていないことだろう。

おどろいたのは、同じ日に読んだ舟橋洋一さんの渾身のリポート『青い海をもとめて』(朝日新聞社、2005年)に、同じ話題が出てきたことだ(156ページ)。
中国政府は、沖縄は日本の主権下にあるとの立場である。毛沢東(彼もいま再び『マオ』によって注目を浴びている)は、米国は沖縄を一刻も早く日本に返せ、と主張していた。
たしかに。ただし、上里氏も船橋氏も言うように、台湾の国民党政府は「沖縄の帰属未解決」という立場をとり続けている。
つまり、「沖縄を返せ」ということである。
上里さんの言う、当事者である沖縄住民の意識が何よりも優先されるべきであるという意見には一定の説得力がある。
しかし、それがすべてに優先されるのであれば、たとえば北方領土の問題を日本人が議論することは無意味であり、それ以前に住民に失礼だということになるのではないか。
今や世界に2つしかなくなった分断国家の2つともを抱え(南北朝鮮、中国と台湾)、3つの国境紛争を抱えた(日本とロシア、日本と中国、日本と韓国)われわれの住む東アジアが、この2005年という年に、まがりなりにも共同体へと向けて歩き出したことを、ぼくは何よりも重視したい。
ファナティック(熱狂的)な反応には、まずなによりも冷静になること。
それもまた、現在の世界を混迷の淵に追いやったイスラム原理主義とアメリカ覇権主義の対立が、多大な犠牲のうえに教えてくれていることではないか。
2005年12月29日
発見その2・・・ただひとつの自治体
サーターアンダギーの製造元・・・

大里村のメーカーだった。
あと、2日とちょっとだよなぁ、と思う。しつこいけど。
本屋でもらった新しい日本地図には、「○八重瀬 ○南城」とちゃんと書いてある(当たり前ですな)

大里村は、沖縄ではめずらしい「海のない自治体」から、「海のある自治体」に変わるわけだ。
・・・ということは、東風平町が具志頭村と合併して八重瀬町になるわけだから・・・
2006年1月1日からは、沖縄で海のない自治体は南風原町だけになる。
これは、ぼくにとっては大きな発見。
【地図参照】
(この地図も、もうすぐに南城市と八重瀬町に変わるんだな)
ちなみに、メーカーの住所、目取真だ。

ふりかえって見ると、木曜3時限目の沖縄文学の講義では、目取真 俊についていちばんたくさんやったのだった。
現在の沖縄で、最もアクティヴィティの高い作家であることにまちがいはない。
(すみません。話題、ものすごく飛びました)

大里村のメーカーだった。
あと、2日とちょっとだよなぁ、と思う。しつこいけど。
本屋でもらった新しい日本地図には、「○八重瀬 ○南城」とちゃんと書いてある(当たり前ですな)

大里村は、沖縄ではめずらしい「海のない自治体」から、「海のある自治体」に変わるわけだ。
・・・ということは、東風平町が具志頭村と合併して八重瀬町になるわけだから・・・
2006年1月1日からは、沖縄で海のない自治体は南風原町だけになる。
これは、ぼくにとっては大きな発見。
【地図参照】
(この地図も、もうすぐに南城市と八重瀬町に変わるんだな)
ちなみに、メーカーの住所、目取真だ。

ふりかえって見ると、木曜3時限目の沖縄文学の講義では、目取真 俊についていちばんたくさんやったのだった。
現在の沖縄で、最もアクティヴィティの高い作家であることにまちがいはない。
(すみません。話題、ものすごく飛びました)


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